歎異抄読書会ログ(1)
場所:空き室VC
主な参加者:はじめさん、くま子さん、七光りさん、ウボァさん、くすみさん
お願い
複数の人の観点からのログが理想的なので、参加者は気が向いたら自由な形式で追記願います
事務的なこと
テキストチャットの場所は空き室に定めた(スレッドを使わない)
方針確認
毎週日曜日の22:30〜23:15行う
前回出席者が欠席していても先に進んでいく
後序も読む(長いので2回かける可能性あり)
記録
22:35頃から朗読開始
23:17くらいで一旦止めて、その後、23:30にかけて今回の話のまとめと前回のVCの案内をした
その後、「イベントを終了」して、二次会的に雑談
反省点
弥陀の誓願についての講談社学術文庫の補注を紹介すればよかったかなと思った
誓願の「約束」的性格について触れればよかったかもしれない
タイミング:信心という条件について話していたとき
理由
信心というのは、弥陀の誓願(約束)が履行されたことに対する信であろうから
話したこと
いくつかの"矛盾"
救われる条件
老少善悪に関わらない(無条件)と言った次の瞬間、信心を要とす(条件)と言う"矛盾"
矛盾解消案
人間の行為や心がけ(善)という条件と信心という条件は別物なので矛盾しない
内実:
信心は自ら起こすことができず、阿弥陀仏に与えられるものである
阿弥陀仏の救済条件を阿弥陀仏自らが与えている
客観的事実としての阿弥陀仏と主観的信心
阿弥陀仏が仏になっているということはその時点で全員救われているはず(客観的)
であれば人間(主観)が何をしようが関係ないのではないか
そうであれば「念仏」も「信心」も不要なのではないか
念仏はしているが信心が無いケース
仮に念仏を信心の現れと見なしそれと不可分のものと見なすとする
それでもなお「信心の現れではない偽の念仏」がありえる
これは外から見れば〈念仏している〉が実は信心が無いというケース
読解における導きの概念:実感
客観的な信心の有無や弥陀の誓願の妥当性とは別に、歎異抄に語られていることの実感という観点がある
親鸞の内の矛盾
全員無条件に救われてほしい
救われるのは親鸞一人
コメント
ここでの「親鸞」は個人としての親鸞なのかどうか
提案:「親鸞」という個人と、「親鸞の信心」とを分けて考える
参照情報:「親鸞一人」という表現は後序にみられる
確認された読解上の観点
弥陀の誓願−信心−念仏という3つのものの関係に注意したほうがいい
その他
暗唱