根本悪(カント)
カントの「根本悪」は、この語の響きから考えられるようなすさまじい極悪のことではない。それは、強姦、強盗、窃盗等々のいわゆる刑法上の犯罪とはまったく関係がない。自分が食べるために他人の食べ物を奪うこと、自分が生きるために他人を殺すこと、自分が快楽を得るために他人を苦しめること……等々、ほとんどの悪質な犯罪行為のように、他人の幸福を犠牲にして自分の幸福を追求することではない。
「根本悪」の原語はradikal Böseであって、「根もとまで遡る悪」ないしは「根を張った悪」と直訳されうるものであり、「人間存在の根っこに位置する悪」という意味である。それは、人間という理性的かつ感性的存在者という矛盾的存在者が避けがたく背負う悪であり、具体的には、一方で、「真実を語れ」という理性の命令を聞きつつ(これを「真実性の原理」と呼ぼう)、他方、有機体である人間の幸福を求めたいという欲望(これを「幸福の原理」と呼ぼう)とのあいだで引き裂かれながら、結局は後者を取ってしまうという悪である。
中島義道. 晩年のカント (講談社現代新書) . 講談社. Kindle 版.