文明化は身体機能を律する形で発展している
自制と禁止がどんどん発達していく様子は、テーブルマナーの進展に見てとれる。食べることは最も基本的な形の肉体的快楽だ。だから、当然、社会統制の対象となる。いやしくも文明人ならば「獣のように」料理にかぶりついたりしないで、上品にいただくこと、節度を保つことが期待される。つまり、お腹が減ってはいないように振る舞うことが求められる。 (中略)
身体の機能を律する規則にも同様の進展が見られる。たとえば一六世紀には、具体的に用足しの方法を指示する必要があった。「誰であろうと、食事中か食事の前後かを問わず、夜でも朝でも階段、廊下、物置を尿や他の汚物でよごしてはならない。用足しの際には、所定のふさわしい場所に赴くこと」。この規則は明らかに守られてはおらず、一八世紀の手引きにはこんな指示が付された。「用便中の人のそばを通り過ぎるときには、気づかなかったように振る舞うのがよい。したがって、あいさつをするのは礼儀に反することだ」。
(中略)
すべての身体の機能が一つまた一つと、礼儀正しい人づきあいから排除されていった。最後に残った一つが、つばを吐くことだ。以前の伝統では、地面や床につばを吐くことは「足で踏み消す」のであれば許されていたが、やがてそれも不作法とされた。ハンカチにつばを吐くよう指示され、一九世紀中葉にはこれすらも、ひんしゅくを買うようになった。一八五九年の心得帳によれば、「つばを吐くことは、いついかなるときでも不快な振る舞いである。決して気ままにつばを吐くようなことをしてはいけないと言うだけで充分だろう」。それでも、二〇世紀初頭にはまだ多くの上流家庭の玄関に痰壺が置かれ、街路から入って来る人がつばを吐けるようにしてあった。
ここで浮き彫りになるのは、文明化の過程が、人間の体の本質を否定することをめざしているように見えることだ。多くの場合に、礼儀正しさの規範は、人間が楽しんだり欲望を満たす可能性とまったく対立するものになる。僕らがこのことに気づかない傾向があるのは、もっぱらよく社会化されたせいで、もはや規則を押しつけられたものと感じないからだ。現代社会のほとんどの子供は一〇歳までに、五世紀前の大人より多くの行動の抑制ができるようになり、多くの規則を内在化している。これが、文明のために払った代償なのである。 テーブルマナー、所定の相応しい場所以外で用足しをしてはならない、放屁の統制、つば吐きなど、多くの肉体的快楽が「礼儀」という形で社会の中でコントロールされるようになった。
文明化するにつれて、自制と禁止が発達していった。現代社会はこれらの多くの規範を子どものうちから内在化している。これは文明化の代償である、という見方ができるというお話。