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「に」の使い方 他
……
窪地の古池だけがまだ眠りこけていた。鰭(ひれ)には揺(ゆら)れず、蛇にも過(よぎ)られず、翡翠(しょうびん)も掠めず、落葉も浮べず、沼気さえもあぶく立たなかった。ただ寂(せき)として、もの皆の影を映していた。
そこに、緩い傾斜を、男の子が駈けおりて来た。赤い、はち切れそうな頬、円眼(つぶらまなこ)。
続いて女の子は、草露に、ちょいと裾をたくしあげ、あちこち拾って、ピョイピョイと跳ぶようにしておりて来た。――里見弴『多情仏心』「序詩」 「鰭には揺られず、……」
鰭は換喩。
換喩でも提喩でもなく、(魚の)を言うまでもないということか。
「に」は行為の主体を指示するか
「欲にかられて」なんどと言うときの「に」という助詞は、行為の主体を指し示す
「欲が(人を)駆る」わけだから、駆るの主体は欲となる。
久住哲.icon自分は受動態の文を書くとき「によって」と書きがちだが、これは美しくないかもしれない
動作を見たときピントが合うものを「に」で指示しているか
「女の子は」
この箇所はこの女の子の初登場シーンだが、いきなり「女の子は」と書かれる
適切な喩えか分からないが、いきなり"She ……"と代名詞が出てくるような印象。
「草露に、ちょいと裾をたくしあげ」
意味としては〈草露に濡れぬよう〉
それを「草露に、」だけで表しているのがカッコいい久住哲.icon
久住哲.icon自分ならここで「草露に濡れぬよう、ちょいと裾を……」みたく書いてくどくなりそう。
cman.icon「草露(があふれている場)に」という読み方も出来そう。
圧縮するとここは「女の子が~来た」だから、登場する場の説明として「に」を使ってもおかしくない
「草露に」の後の読点が重要に思われる久住哲.icon
読点で一拍置くことで「草露」で想像できる範囲を広げていると思うcman.icon
「拾って」
「拾って」単体では意味が読み取れない
「草露に、ちょいと裾をたくしあげ、あちこち拾って」という一節をまとめて読まなければ、意味が読み取れない
辞書で引くと「徒歩で行く」とあるが、ここでの主な意味は〈選ぶ〉だろう
単に〈徒歩で歩く〉のわけがない。この文脈では徒歩なのが明白だから。
〈足をつけても草露に濡れない場所を選びとって〉という意味だろう久住哲.icon
「拾う」の一語で女の子が歩くときの注意の向け方まで描写している 一語でといっても、これに「草露に、裾をたくしあげ」という修飾はつく。
「拾う」という語の〈多くのもののなかから一部を選びとって〉という意味を使う
この場合、〈多くの足の踏み場から都合のいいところを選びとって〉ということ
「拾う」には「選ぶ」の意味がある
「拾遺」←これは少し違う
〈濡れないように〉という、「女の子」の注意の向け方を描写している久住哲.icon
「きっとね!」
肩の丸味で念を押してよこした。――里見弴『多情仏心』
この場面の背景
青年と少女が帰路を歩きながら、少女の実家に青年が泊まるか泊まらないかやり取りをしている
少女は頓着なく泊っていきなよと言うが、青年は年頃らしく遠慮を口にしている
何度も言葉のラリーをしたあげく、ようやく男が「泊ってくよ」と言った場面である。
「肩で念を押し」ではなく「肩の丸味で念を押し」とする
これにより女性の身体性が表される久住哲.icon
「肩で押す」とするよりも「肩の丸味で押す」としたほうが、リアルな身体性を表現できる久住哲.icon
あまり見かけない。
「念を押してよこした」
「念を押してきた」ではない。
文字通り、念をよこしてきたような書き方だ。
青年が「泊っていく」と言ったことで会話が一区切りつく。その終わりが、肩の接触によって、少女から青年へわたされる。その後の会話は、そこで解かれた緊張の緩和にともないながら進む。催眠術における「刺激」と「追い込み暗示」みたいなものだ。
「その代り、へんに思われたって知らないよ」
「ええ、いいわ、構やしないわ」
「よし!」
それから二人は手をつなぐ。