数学はアプリオリかアポステリオリか
数学はアプリオリかアポステリオリか。これはかなり根源的な問いのように思われる。歴史的な事実という観点から考えるならば、答えは簡単だ。数学はアポステリオリである。数学はそれぞれ異なる時代や文化の影響を受けながら、人間が試行錯誤して生み出してきたものだからである。ギリシア人から生まれた幾何学とインド人から生まれた代数は、やはり彼らの民族的な文化を色濃く反映したものであり、それが逆になることは有り得ない。 それでは数学におけるアプリオリ性を考える必要はないのだろうか。数学にアプリオリ性を感じる場面があるのである。例えば、幾何学的に導き出された解と代数的に導き出された解がぴったりと一致する場面などである。(一致が基本であろうが)そういう時にはやはり、人間とは関係のない世界に何か数学的な対象が存在するのではなかろうかと感じざるを得ない。
また幾何学の証明においても似たようなことが言える。人間であれば順番にゆっくりと一行一行論理を積み重ねてゆくことで、証明に至る。だが、その行為は人間にとって必要なものであり、人間が認識するために必要であるに過ぎないのだ。人間がそれを逐一証明しなかったとしても事実は変わらない。三平方の定理は証明しなくともそこに存在しているはずである。(こう言いたくなる。)そしてそれは超人間的な神のような知性を想像することでもある。神のような知性であれば、幾何学の命題を一々証明しなくともそれを知っているはずだからである。 人間がそこに関わらなかったとしてもそれは現にそこに存在しているはずである、というこの想定。この想定をした瞬間に、そこに世界が生じる。この想定をした瞬間にそこに神が生じる。
まだ確認されていない幾何学の命題を想定するということ、それは人類にとっても個人にとっても。これはまだ数えたことがない数がそこに存在するという想定に似ている。人類にとってまだ数えられていない数は必ず存在するはずである。だが我々はその先もまたその先も数が存在していることを疑うということは絶対にしない。それはなぜなのだろうか。どこかで数が途切れているということは有り得ないのだろうか。それは数を規則として捉えているからこういう思考が可能になるのだろうか。数がその先も存在していることはアプリオリにわかっている。それはアポステリオリに理解されるものではない。
はじめ.icon
ヒルベルトの23の問題が出たころの数学なら人間に関わらず存在するという解釈と親和性が高いけれど、ゲーテルが不完全性定理を発表し連続体仮説のような真か偽か証明できない命題が発見された以降の数学だと、あまり深掘りしても仕方ないことに思えてしまう(否定しているわけではありませんが、表現が悪かったらすみません)takker.icon 不完全性定理以降の数学は、公理を「証明できないけど多分正しいであろう命題」ではなく「その数学体系で真であると仮定した命題」になった これにより、各々が自由に公理を選んで自由な数学を構築できるようになった
ルールのあつまりを人間とは関係のない世界の存在とするなら人間に関わらず存在するとも言えそうだが、人間が勝手に決めたルールの集まりが超人間的な概念と結びつけるほど大した対象だとは思えない
人類にとってまだ数えられていない数は必ず存在するのは単純に自然数をそう定義したから
自然数を有限だと定義し直せば終わりが現れる
鬼ごっこは全員鬼になったらゲームが終わるが、理由は単にそういうルールにしたから
赤信号の時横断歩道を渡ってはいけないのは、そういうルールにしたから
赤信号無視している人は正直に手を挙げなさい
鬼ごっこや赤信号のルールと数学は違いますね。鬼ごっこや赤信号のルールは人間が恣意的に決めることができますが、数学はそうではないです。人間が恣意的に定めることのできない領域が必ず残ります。確かにある程度の部分、特に記号の部分においては、数学においても人間が恣意的に定めることができます。しかし、記号の背後にある領域いおいては人間が恣意的に定めることはできません。はじめ.icon
数学はこのようなルールの話でしかないとtakker.iconは考えているので、必要以上に神秘性を求めてもしょうがないと思っています
「超人間的な神のような知性」は「神秘性」とは違います。神秘性を求めているわけでもないです。はじめ.icon
自分は数学には単なるルール以上のものがあるという立場です。幾何学の存在がこの立場の鍵になるでしょう。はじめ.icon
もちろん幾何学的に導き出された解と代数的に導き出された解がぴったりと一致する場面が現れるとめちゃくちゃテンション上がります