愛されるより恐れられる方が安全である
『君主論』においておそらく最も有名な言葉。第17章に登場する。 ここでもう一つの議論が生まれる。恐れられるのと愛されるのと、さてどちらがよいかである。だれしもが、両方をかね備えているのが望ましいと答えよう。だが、二つをあわせもつのは、いたってむずかしい。そこで、どちらか一つを捨ててやっていくとすれば、愛されるより恐れられるほうが、はるかに安全である。というのは、一般に人間についてこういえるからである。そもそも人間は、恩知らずで、むら気で、猫かぶりの偽善者で、身の危険をふりはらおうとし、欲得には目がないものだと。
『君主論』において、マキャヴェリは基本的には性悪説の立場をとっている。上記の書きぬきに続いて、 たほう人間は、恐れている人より、愛情をかけてくれる人を容赦なく傷つけるものである。その理由は、人間はもともと邪なものであるから、ただ恩義の絆で結ばれた愛情などは、自分の利害のからむ機会がやってくれば、たちまち断ち切ってしまう。ところが、恐れている人については、処刑の恐怖がつきまとうから、あなたは見放されることがない。
のような表現も登場する。
確かに一般的には愛される方がよいのかもしれないが、政治の場面では恐れられる方が安全なのかもしれない。
ただし結論としては以下である。
ともかく、君主は、たとえ愛されなくてもいいが、人から恨みを受けることがなく、しかも恐れられる存在でなければならない。なお恨みを買わないことと、恐れられることとは、りっぱに両立しうる。これは、為政者が自分の市民や領民の財産、彼らの婦女子にさえ手をつけなければ、かならずできるのである。
とにかく恨みを買うなということ。これは後半に数回登場することなので、マキャベリ思想において重要なことなのだろう。