思想哲学ch
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2021/8/6作成。
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「給料ぶんの仕事はするとしよう」とかデグレチャフちゃんがよく言ってたが、どうやってデグレチャフちゃんが自分の仕事と給料との関係を評価できるのか、謎。
声による定義行為の場合(言うて書いとるからアレやが)
「死は意識の消失だと私は定義します」
「はい」
「そして死は〜」
「ストップ。さっきの「死」と今回の「死」は声の高さが違います。あなたは「死↗」を「意識の消失」だと言いました。「死↘」を「意識の消失」だとは言っていません」
馬鹿げた話。定義行為は、何かを示さんと書いたり言われたりした言葉の意味をもとに為される。だから、この場合だと「死」という言葉のそのつどの発音のブレなんてどうでもよい。或るものに関する定義行為は、その行為によって定義せんとしている或るものに遅れている。
文字の場合
「死は意識の消失だと定義します。そしてしは眠りとは異なる」
「し、とは何ですか」
これも変な話。平仮名の「し」は変換ミスだとわかる。
単純な話、「死は私の近所の100均ショップです」なんていう述定は考えるまでもなくバカバカしい。
しょうもない擁護ゴッコとかはどうでもいい。
このバカバカしさも、定義文や定義行為によって可能になっているわけではない。
「私は死ぬことができない」という文は、死に関する定義文からは出てこない。少なくともそれは、「あ、いま自分による死の定義文から外れた仕方で死という言葉を使ったぞヤーイヤーイ」「だったらこれは死じゃないの? だったらアレは?」みたいなんから出てこない。
死は私が死ぬこと、「終わる」ことであり、他の行為とは異なり、私は死ぬという「行為」の終わりに立ち会えない。「そろそろ寝るわ」とは、言うが、それは腕を上げるような行為ではない。寝ることが生じる状態に自分を置く、といったものだ。「寝る」という動詞に関する辞書の文(の字面)を1万年ぐらい見つづけても、「眠りが訪れる状態に自分を置く」なんて文は出せないし、「寝ること生じるよう〜」を「眠りが訪れるよう〜」へ書き換えもできない。
「私は「寝ることが生じるよう〜」と定義したんだ。「眠りが訪れるよう〜」とは定義していない」みたいなんは、一言一句から指標の曖昧さを捨て去ろうとしている場合には言える発言ではあるが、たいていの場合、そこまで為されていない。
そしてその場合、もとの定義文とは多少は異なる字面になっていようと、「訪れる」というあたりから寝ることの非行為性を読みとり、容認するだろう。あるいは「自分より自分が言おうとしていたことを上手く言っている」みたいになるだろう。
『名指しと必然性』での話を紹介するのもありだが、ウィトゲンシュタインの直示行為あたりからでも理解可能な話だと思う。
私はすぐ「定義は?」とかいう人を信用していない。「どういうこと?」とかはアリだけど。
議論のやり方の話にも繋がるが、たいてい、「定義は?」なんて聞いてくる人はその後に「じゃあこれは?」とかやっちゃったりする。「論理的に」ーー語用の規範倫理学的にーー違反してるとか、そういう風に指摘する側に回る。そういうのは他人からの評価を或る程度は遮断できる人じゃないとしんどい。というのも、たいていそのお喋りは周りに見られてるんだから。
そして「定義は?」と聞いて定義文が示されたとき、たいてい、その定義文が妥当かどうかの話から話が横滑りして、ぜんぜん別の話になったりする。相手の返事に現れている或るものに関する認識に向かって反論したりなんなり。
そんなんよりかは、死は私の限界、私の「外部」に接する境界だとするなら、死とコミュニカシオンの関係は〜みたいなんのほうがよっぽどいいんじゃないか。上で私はいっさい「定義」していないが、それで話は進む(ついて来る人がいるとしてやが)。
「定義は?」なんて聞かれたりしたら、「いやー定義ってほどのもんじゃないんですが、「外部」うんぬんコミュニカシオンうんぬんみたいなんは何かで読んでなんか印象に残ってるんですよねー。どう思いますコレ?」みたいなんでオッケー。
「合意形成」なんて存在しえない。在りうるのは、或る仕方で行動することを約束すると宣言するということ。どういう狙いからそうするのか、或る仕方で行動するよう求められたことについて賛成なのか反対なのか、そういう意図や意志が他人のそれと「合う」はずはない。「合意」なんてのを信じてる(あるいはまったく疑わずにいる)と、いわゆる「自分を殺して」譲歩してくれてる人がそんな素振りも見せずにそうしているということがありうるのを忘却してしまう。だから、そのときは「合意」を示したものの、「合意」した人として扱われるにつれ、段々と自分が「合意」を示したことに疲れちゃったりしがち(これはこれでその人が悪いが)。
思考の方法(≒読み書きの方法)について、なにか出せないかとたまに思ったりする。「方法・道筋は対象(目的=終点)が決める」というのはそれはそうだが、おそらく、自分が見るものについて「自分で」考えをまとめたい、いまの自分の考え方や感じ方にこそ自分は退屈している人はそれなりにいるだろうから。
それなりに書けてそれなりに読める人々がいても、それなりに書けずそれなりに読めない人々にとっては、まさに、書けない、読めないこと自体がサロンや企画への参加への(「心理的」)な障壁になっているんだと思う。私がそれなりに読み書きできる人間である場合、それ自体が障壁になっているのではないかということだ(「いやお前の場合は粗野なところが」みたいなんはあるにしても)。
久住哲.icon「それなりに読み書きできる人がいて、活動している」ということ自体が、それができない人にとっては企画等への障壁に感じられる、ということ?
だったら皆んなのレベル上げしたらいいじゃんっていう。そのためには出来上がったものをポンと出すだけじゃあダメ、ダメかな。出来上がったものにだって過程は現れているわけだし。
しかしこれはアープラの理念に抵触しそうではある。指導的な色味が強い。どうやったら整うかな。
とは言え、「考え方」の質を高めるにはどうすりゃいいのかっていうのは面白い。とりあえず自分の考えるべきことのネタのメモとしてここに残す。
これってアープラノートのサロンみたいなもんですか? だったら過疎ってるなぁ笑 アゲとこ。
このチャンネルページからピンを外してみました。2021/9/14 21:50
プラグマティズムの話をしようとしたときに、まずデカルトの話をしなきゃなと思ったのだった。「デカルトは押さえておいたほうがいい」という話をするときに、「プラグマティズムの位置づけを理解するうえでも重要だから」と言えるようになったかな。