志向性
あらゆる意識はなにものかについての意識である。
この”なにものか”、つまり志向の対象はたとえば目の前のコップといった物理的なもの以外にも、四角い丸やキマイラ、来年の春、ベルリンにいるピエールなど様々な種類がある。
そして知覚は対象を実在として定立するのにたいし、想像的意識は対象を一つの無として定立するという。 非実在のものとして定立する
他の場所に実在するものとして定立する
対象を実在するものとしては定立しない
サルトルはイメージの分析で対象は不在の対象の代理表象物であるとしている。(上掲書p.71)
例:代理表象物:デューラー版画 不在の対象:〈騎士〉と〈死神〉
フッサールは知覚の代理表象論を批判している(ザハヴィ『フッサールの現象学』p.23-27)
絵画は、像を構成する意識にとってだけ像である。すなわち、その意識は、知覚的に意識に現出する最初の客観に、自らの(したがってここでは知覚に基づけられた)想像的統覚によって像の「妥当性」あるいは「意味」を付与するのである。したがって像として統握することがすでに意識に志向的に与えられた客観を前提とするならば、客観自体をつねにすでに像によって構成されたものにさせること、したがって、知覚に本来具っており、端的な知覚に関してそれ「によって」知覚が「事象そのもの」に関係する「知覚像」について語ることは、明らかに無限後退に至る。(Hua19/437.Cf Hua19/398)
『フッサールの現象学』p.25
(しかしサルトルはイメージをそれ自体意識であると言っているので、フッサールの代理表象論批判と並べるのは不適当かもしれない)
ところで、意識はなにかについての意識である=志向性をもつというのは、たとえば目の前のコップをみるとき、コップをみる主観と、見られるコップという客観という二元論的な意識の働きではない。
フッサールはそのような主観と客観がまずあるという前提をせず、すでに何かを意識してしまっているというところから始める。
また志向はコップを見るという能動的な志向性の他に、自己意識を伴わない受動的な志向性もある。
(過去把持の交差志向性や延長志向性、生存本能など)
さらに知覚されるものはすべて、ある背景をともなっている。コップを見るとき、コップの周りには机なり壁なりがあり、それらもある仕方で知覚されている。志向性は、コップを見ている意識におけるコップという主題化された顕在的な志向対象だけではなく、潜在的に発動している「背景」からも成っている。このような志向性を地平的志向性とよぶ。
この「背景」は規定可能な未規定なものである。空間的な知覚は主題化された対象と潜在的な地平という構造を持っている。