定義は調整されうるか
そこで、ある書き手は「定義は調整できない」と言い、ある書き手はそこに疑念を覚えた。
久住哲.icon「定義の調整」の意味は2パターン考えられる
1. 記号に与える意味を変更すること
2. 経験や理念に照らして定義を変更すること
久住哲.icon2022/5以前に私によって書かれた以下の行塊は、意味が分からない
1は「調整」ではない。それは「別な定義」だ。
なぜなら、1の変更を行うか否かは専ら定義者の意図にもとづいているからだ
(追記)この文が意味不明なのは、1に出てくる表現「……に与える意味」の意味が不明瞭だからだろう
もしも、定義者の感覚に合うように記号の使い方を変えることが「調整」であるとすれば、1も調整と言っていい。
もしもこれが調整であるとすれば、それは「複数の定義のセットの内部での調整」である。
この場合、調整の基準となるのは、語の意味がダブっていないかどうかとか、語が集合の全体をカバーしているかどうかという語義同士の関係だ
例えば、上の「1」と「2」の他に3つ目のパターンが見つかったとき、その3つめのパターンが2番目に置かれたほうがいいのであれば、「2」という記号の意味は変更される。これは調整だが、〈「1〜3」という記号のセットの調整〉であって、「2」という番号単体が調整を受けたわけではない。
いっぽう、2はたしかに調整である。それは経験に合わせて定義の表現を変えることだから。
そして、久住哲.iconが問題としたかったのは、1は調整が不可能であるという点だ。
久住哲.icon追記:文脈が分からない(2022/5/25)
久住哲.icon 2023/3/17追記
ここで私は、自分が批判しようとしている方法を、自ら行ってしまっている。すなわち、「調整」という言葉に《自分なりの定義》を与えたうえで議論しようとしている。これは以下で「私の定義」と呼ばれているものだ。
私はとんちんかんなわけだが、とんちんかんな者が議論をするときに、このようにしてテキストを後から編集できることは良いことだろうか、悪いことだろうか。私は自分のとんちんかんな議論、あるいは、意味不明の文章を[- ]によって抹消するわけだが、すると、そのとんちんかんな言葉に与えられた他の人からの批判の意味が分からなくなる可能性がある。つまり、その批判が批判していた元の文章が消えてしまうので、元々あった文脈が失われてしまうからだ。こういったことを防ぐために、元々あった文章はそのままにしておくべきだろうか?もしかしたら、そうかもしれない。去年の自分の記述を編集し直すということは、おかしいことかもしれない。特に、それが他人とのやり取りの文章であるときに。 私ははっきりとこう言うべきだっただろう:「記号に意味を与える」という表現の意味がよく分からない、と。
私は「定義は調整できない」と言った。私はその後、次のように言うだろう。「定義は調整できないので、議論で定義をするべきではない」……ところで、「なぜ、定義は調整できないのですか?」……「定義とは、定義する者が、記号に意味を与えることだからです」……「なぜそうだとすると、定義の調整ができなくなるのですか?」……「記号に与えられた意味を変更できるのは、その記号に意味を与えた人だけだからです。そこでは、記号とその意味が一対一で強く結びついています」……「つまり、あなたは次のように考えているのですね:定義の調整は、定義した人だけがそれをできるのであっては、調整できるとは言えず、他の人もそれをできるのでなくてはいけない」……「そういえば、そうです。私は、議論というのは認識を擦り合わせる共同作業であると考えています。しかし、テーマとして掲げられた言葉を定義してしまうと、そういった共同作業が不可能になる。よって、議論もできなくなる。あるいは、議論というのは次のようなものになります:ある言葉がAのように定義された場合にどのような帰結となるかを追跡する作業」……「ということは、定義が調整できないというよりは、定義が記号に意味を与えることであるとすれば、記号に意味を与えた人以外の人が同じ記号に別な意味を与えることによってその記号の定義を(より良いものになるように)変更できない、ということを言いたいのですね?」……「そうです。それに、ある記号に別な意味を与えるというのは、定義の調整ではなく、それはもはや、別な定義じゃないですか」……「なぜそれを『定義の調整』と呼ばず、『別な定義』と呼ぶのですか」……「定義の調整とは、実践的には、ある同一の対象……これは語ではありません……を各人が指示するために、言葉のやり取りをすることです。各人は、お互いの言葉を肯定したり否定したりしながら、同じ対象を志向するためにやり取りをするのです。調整とは、そういった対象を基準にしての、お互いの言葉の調整です」……「まず言っておくと、同一の対象の指示ないし志向といった現象を、私は理解できません。それはおいておいて、そういったやり取りはそもそも『定義の調整』とは言えないでしょう」……「そもそも私は、定義の調整はできないと言っているのです。できないことを、話すことはできません」……「すなわち、あなたは定義の調整が不可能だと考えるから、可能である『別な定義』という言葉を持ち出したんですね」……「そうです。定義については、調整は不可能。できるのは、同一の記号に対して別な意味を与えることだけです」……「しかし、その、別な意味を与えるということこそ、定義の調整ではないですか?」……「語Aに意味aを結びつけていたのに、後から語Aに意味bを結びつけること。これは、別なことを話すことです。つまり、同じことについて別な風に話すことではない。意味aと意味bは別物です。意味aについて話していたときと、意味bについて話すときとでは、もはや別な話になっています。同じなのは語だけ。そして、語は外見だけのものです。もしも、記号に意味を与えることができるとしたら!『かき』という言葉を『美味しいフルーツ』と定義したとしましょう。それで『樹になったかきを収穫する』とか話していたとします。次に、『かき』という言葉に『新鮮な魚介』という意味を与えたとしましょう。そして、『生のかきを食べると腹痛になる場合がある』とか言った場合、ぜんぜん別な話をしていることになります」……「あなたはすごくおかしなことになっているようです」……「いや、おかしいのは、言葉に意味を与えることができるという、この想定です。そういったことは、ローカルな、不必要な制限を議論につけくわえるだけです。そうした制限のもとで、不自然な議論が行われます。……理想的には。そう、現実には、定義は無視されます。なら、はじめから定義などしなければいい」……「その代替として、あなたは『名指す』ということを言いましたが、どうしてそれが良い代案だと思いましたか?」……「そこには、定義にあるような、個人に閉じこもったところがありません。言葉を定義せず、同じものについて語り合おうとする。語る人同士は、互いに同じものによって制限を受けます。片方が片方に、自分の言葉づかいを強制するようなことはありません。お互いの外側に存在している、同じ対象を基準にして、それぞれがそれぞれの仕方で、その対象に適合するように語ろうとします。そういった語りを通じて、その同じものが『名指される』ようにするのです。その同じものを名指すのに使われる言葉が、テーマとなる言葉です。定義する人は、まず言葉からはじめて、その言葉に自分で意味を与えて、その自分で与えた意味をテーマにします。逆でしょう。まずテーマがあって、それを名指す言葉を、お互いに探り合う。お互いにその言葉が違っていてもいい。同じ対象を名指すことができれば」……「ですが、その同じもの、同じ対象とは、なんですか?」……「それは、例えば、同じような状況に臨んだときに、体験される問題意識です」……「どんな問題意識を持つかは、人によって違いますよね」……「でも、私たちは同じ体験をすることができる。同じ問題に気づき、それに対して、協力して解決のために議論できる」……「そのために、対象の特定こそが重要なのですか?……
つまり、どっちもダメだ。
これを問題視するということは、久住哲.iconは議論において「調整」が重要であると考えているのだろう。
この1が具体的になされる例は、「私の定義」である。
「私は〜という語に〜という意味を与えています」という宣言は、聖域となりうる。
これに対してなにか批判をしても「それは私がその言葉に与えている意味とは関係がない」と言える。
その人がそういった自己定義を変更するかどうかは、その人の意思にかかっている。
もちろん、人によって言葉の使い方は異なる。
読んできた本とか、してきた経験が異なるし。
しかし、議論は必ずしも自己定義の発表の場ではない。
もともとの問題は「議論を上手くやるためには」というものだった。
自分の定義を聖域化することは、議論が平行線をたどる一因となりうる。
以上
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(色々と書き込みがされてますが、それらについて考える前に、一旦自分の考えを書いておきます。)自分が「定義」が調整されうる、ということで想定しているのは次のようなことです
例えばある人(X)が「私は○○を~~というように定義します。するとあれがこうなってこれがああなるから(論証)、最終的にAということが言えます(結論)」みたいな立論をしたとします。これを聞いた別の人(Y)が、「いや、そもそも○○を~~と定義するのはおかしいよ。だって△△だから」みたいな反論をしたとします。
これに対するXの反応は色々と考えられます。
1.Yの反論を妥当だと受け入れ、新しく定義を考える。ひいては、立論を考え直す
2.Yの反論は妥当だと受け入れるが、それを考慮しても立論に影響はないと考える
3.Yの反論については保留し、結論を「もし○○を~~と仮定するならばAである」という仮言命題に変える
4.Yの反論に対して再反論し、自分の定義の妥当性を示す
今、自分が「定義が調整されうる」ということで想定するのは主に1のケースですが、こういうことは実際の議論においてもあると自分は思っています(少なくともやっていけない理由はないでしょう)。だとするならば、上のうちの(あるいはそれ以外の)どのような反応をするかは定義をした人 = 立論者次第ですが、いずれにせよ「定義」というやり方に問題があるとは自分には思われません。
つまり、「定義が調整されうる」ということの自分の解釈は、「一度決めた定義もその後の議論の流れによって変更しうる」ということです。
なるほど!私は議論における主題のことばかり考えていましたが、相手の批判など議論の流れに応じて自分の立論を調整することはあり、その調整のなかに定義の調整も含まれる、という感じでしょうかね。
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名指しは調整しうる一方で、定義は調整されない。
定義は調整されるのではなく、複数立てられて使い分けられる。
これは個別の定義の調整ではなくて、定義のセット(まとまり)の調整である
https://gyazo.com/e07350936dc7606aac5835931abf63ab
「自分の」定義は調整することができず、議論の方法を徒に制限するものとなる
ここも違和感がある。定義ではなく名指す#61dcb49fcc1fc10000677addで述べたように別に定義だって調整可能だと思われる。さらに「自分の語感では〜」というのは、別に「自分の語感」が(絶対に)正しいといっているわけではなく、当然異論があっていい。そして必要に応じて、その語が実際にどのように使用されているかを確認しながら、両者間で「調整」すればよい。 つまり今回の場合、「「定義」は調整されうるのかどうか?」ということが問題(の一つ?)になっていると思われるので、それを両者で確認(ないし議論)すればよい(実際にやるかはともかく)。
「定義は調整できない」は間違っている
定義は調整できる、と言える。
例えば、「人間は肌の白い社会的動物だ」という人間の定義を聞いた人が、「肌の黒い人間もいるよ」と指摘した場合、「人間は社会的動物だ」というふうに調整できる。
したがって、「定義は調整できない」という表現は間違っている。
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しかし、そもそも「名指しを調整する」だとか「定義を調整する」だとか、そんな日本語はない。
これらの"造語"の意味を「定義」しないまま使うから、今も議論が混乱しているのではないか、と自己批判してみる。
ここで「調整」という言葉を思い切って捨ててしまってもいいかもしれない。しかし、(それはせずに、)これらの造語ないしフレーズで私が何を言おうとしていたかを説明してみる。
まさしく今、問題になっている表現「定義を調整する」を題材として取り上げてみる。
これは、そんなことはできない、と言われたものだ。すなわち、「定義を調整することはできない」と言われた。そんなことあるか?と誰でも思うだろう。定義だって調整できるだろう。しかし、「定義を調整する」という表現は、一般的ではない。「定義を調整する」という目新しい表現を前にして、読み手も(書き手自身という読み手も)それぞれその意味を予想して、それはできるとか、できないとかを言う。
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「定義は調整できない」というのはとっさに出たひとつの表現である。
これは「定義を調整する」の「可能性」の「否定」ではない。
これは、或る事態に対してのひとつのラベリングであり、或る事態を指してそれを「定義は調整できない」と名付けた結果である。とすれば、どうか。
その事態とやらを、ちゃんと説明しようとしてみよう。そうすれば、事態が明らかになったり、ボロが出たりするだろう。
定義はいちど立てられたならば、それだけで語彙の使用法について一定の位置を占める。
例えば、「Aは白い動物を意味する」「Bは黒い動物を意味する」「Cは白でも黒でもない動物を意味する」と述べたならば、AもBもCも自らの位置を占め、それらはすべて有効な定義である
これって「定義」か?
このABCの場合、カブりはないが、別にカブってもいい。「Bは白い動物と黒い動物を意味する」と宣言してもいい。では、黒い動物だけを指す場合は、どうすればいいのか、という問題が発生した場合には、「Dは黒い動物を意味する」と新しい定義を立てればいい。
このとき、Dという用語を新たに導入することを「定義の調整」と言ってもいいのではないか?
たしかに言ってもいい。しかし、言うとしたら「定義のセットの調整」と言ったほうがいいだろう。
ひとつの定義のなかでの調整は、たとえば、「Bは白い動物と黒い動物を意味する」を調整して、「Bは黒い動物を意味する」に変えるようなことだろう。しかし、これは調整ではないと、久住哲.iconは思っていた。この2つはぜんぜん別な定義であって、定義の調整ではない。
この調整は、「人間」という記号の意味を変更するという行為ではない。
この調整では、人間についての経験に合わせて、人間の定義を変更している。
しかし、変な話、ある人が「人間は日本人を意味する」と自分の定義を固守するとき、その人に「アメリカ人も人間だよ」と言ったところで、「それは私の『日本人』という語の使い方とちがう」と言える。もちろん、その人が言葉の使い方を変えて、「人間は日本人とアメリカ人を意味する」と再定義することはできる。しかし、同じ権利でもって、「人間は日本人を意味する」そして「人間2はアメリカ人を意味する」とも言える。
これは変な話だ。しかし、似たようなことが議論において発生することがある。
例えば、「自由とは何にも縛られないことだ」と定義して、「しかし、私達は物理法則に支配されているではないか」と指摘を受けたとき、「そう、だから、私達の身体は不自由だが、魂は自由である」とか、「そう、すなわち、この世に自由なものなど無いのだ」と言ったりする。(本当か?わら人形攻撃警報ちゅうい.icon) /icons/hr.icon
定義は事象から意識を逸らせて語に意識を向けさせるだけでなく、事象が個別的なものであるという印象を議論参加者に与える。例えば、「自由」という語にひとつの状態が対応しているという印象を与える。
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「定義」と「名指し」は、既存の語彙を使うか、それとも造語するかの違いであるかと問いかけがあったあと、
それ以外の点では、つまり「〇〇という言葉を〜という意味で使います」ということをしている点は同じか?)。
つまり、定義の場合でも、当然議論の当事者が納得いっていないものを使ったまま議論を続けても意味がないので、自然なものを探したり、議論の途中で不都合が起きたら、立ち返って変えるということをしてもよい気がします。つまり「定義」も調節してよいと自分は思います。
いや、これはそもそも「定義」でイメージする事柄が自分とこのページの筆者とで異なるということか?自分の語感では、ここで「名指し」と呼ばれている作業も、「定義する」という作業に含まれるような気がする。だから、ここで説明されていることが「定義」と「名指し」の違いではなく、「悪い定義」(の仕方)と「良い定義」(の仕方)なら違和感はない気がする。こんがらがってきた。
「定義の調整」と「名指しの調整」をまったく別なものと見なす人と、それをどちらでもさほど変わらないと見なす人と、今の議論では認識が食い違っている。これは、定義がうまくいっていないということだ。
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2023/2/14 swawa_yu.icon(執筆休憩中)(この「休憩」、永遠に休戦中の某朝鮮半島みたいになってしまった。2023/3/15 02:02)
定義というのはあくまでも、議論で使う記号の意味を、(議論がぶれないように)決めるということだと私は思っている。
「この記号はこれまで〇〇の意味でしたが、今後は△△の意味で使います。」とすることで起こるのは、古い定義と新しい定義が生まれること。(古い定義が、生まれるというのはなんか変なので...古さが生まれるという意味かな。)
私は、古い定義も定義であって、合意のもとでいつでも古い定義の意味で記号を使うことができると考えますが、これに異論はありますか?
定義の調整、変更、そもそも色々ある定義
定義の変更の例:
「未成年」が指すものが変わった
「数」はもともと正整数しか指していなかったが、分数や小数や無理数や複素数...と広がっていった。(...大筋は合ってると思うんだけど嘘が含まれるかも。)
mやmol、kgの定義が変わった
定義が色々ある例:
「倫理」「善」の定義は、論者によって様々。
言葉の社会でよく使われている意味をより正確に表現する行為であることもあれば、
社会で使われている意味から大きくは外れていなさそうな意味を独自に言葉に与えていることもある。「2. 経験や理念に照らし合わせて定義を変更すること」が言っているのを私の解釈に基づいて私のことばで表現するとこうかなと思っている。
こう書いてみると、「定義の調整」は「新たに定義する」とか「別の定義を作る」とかいった意味に見える。
「私は〜という語に〜という意味を与えています」という宣言は、聖域となりうる。
聖域の内容に対して批判をしても「それは私がその言葉に与えている意味とは関係がない」と言える。
いやいや、定義そのものに批判をしても確かに「それは私がその言葉に与えている意味とは関係がない」と言われるかもしれないが、定義ごとに、そこから導ける主張がある。(もちろん、間違っていると定義から導けるものもある。これは◯◯は間違っているという主張を導く行為。)→仮言命題 (定義によっては"有意義な"ものを生み出せないことはあると思う。自由の意味を「アイスクリームを食べること」としてもたいして意味のある結論は生まれなさそう。) 久住哲.iconこの点が非常に重要だと思いました。
この論点は、「語に意味を与える」だろうと「議論の対象をお互いに共有したあと、それに名前をつける」だろうと、つまり定義だろうと名指しだろうと、重要なのはその命名儀式ではない……という点に気づかせてくれます
議論で重要なのは「そこから導ける主張」だなって思いました。
そこから導かれる主張に「たいして意味がない」と判明したとしても、そういう定義は生産的じゃないんだなということが分かるという点において、その"議論"には意味がある。
聖域、「私の定義はこれだ」について
こうやって固執するのは、上で述べた「言葉の"社会でよく使われている意味"をより正確に表現する行為」や、これに似た「自分はこの言葉をこのように捉えている」の現れなのではないか。別にそれで固執するのは私は構わないと思うが、他の定義を前提として議論とすることもできないとまずいと思う。
例えて言えば、なんかのテストで「文字のアルファベットを1つずらして、appleをbqqmfと書く」というルールが設定され、そのもとで解答せよという出題があったとき、それに意味があるか疑問に思うことがあっても従うことはできるだろうという。
仮言命題「〇〇ならば△△」の仮言「〇〇」の部分の正当性が傷ついても、このことと仮言命題全体「◯◯ならば△△」の正しさは関係ない。(←自信なし。有識者よろしくお願いします。)
自分が表現しようとしていた考えの内容を表現しきれていなかった場合、言葉として表れた定義は修正されうる。ただしこのとき、頭の中にあった「定義したいこと」は変化していない。こういう場面の「定義の修正」をどう捉えるか。調整という表現はなんかもやっとする。やっぱり再定義かなと思う。
よく考えたら、そもそも「定義したいこと」の中にもなかったけどそれに組み込みたいことが出てくるかもしれない。そういうときは? これが一番「調整」っぽい? (でもやっぱり数の拡張を思い出せば定義ver 2 みたいに感じるかも。)
これで完璧!と思ったところで一旦定義が完了するという説。定義の模索中は定義中、未定義の状態。でも、この話は固執とかあんまり関係ない気がする。
問題としていそうなことの分析:(←実際に問題意識がある部分について再び言及してくださると助かります)
定義に固執することは悪い。固執しているつもりがなくても、議論の自由さが失われることがあるのではないか。(定義によって徒に縛られてしまうことを危惧。)