哲学史的にみた「観念」
哲学史的にみた「観念」
この視覚的なニュアンスは近代哲学に引き継がれる
現代ではこのニュアンスが希薄だと思う久住哲.icon
「観念」って聞くと、《頭のなかに思い浮かぶ考えのようなもの》として受けとられるんじゃないかな
スコラ哲学における「観念」は神の知性の内にある形相に該当する
現代のような意味で「観念」という言葉を使った最初の人はデカルト
デカルトの考え方がけっこう斬新なので、「観念」という発想自体も斬新だと思う。久住哲.icon
観念は認識を可能にしている型のようなものである p127
カンブシュネルの例:「観念は、赤という色を見ることの可能性として私のうちにある」 129 赤い色それじたい(いわばクオリア)が「観念」なのではない
赤の観念が、それ自体で赤色をしているわけでもない
『省察』「第二反論に対する答弁」の附録に定義集
観念という語は、それぞれの思考の形相のことであり、形相を直接的に認識することによって、私は当の思考そのものを意識するのである。したがって、私が自分の言っていることを理解しながら、ことばによって何かを表現できるのは、まさにこのことからして、そのことばで意味されたものの観念が私のうちにあることが確かであるからである。ただし、かくして私は想像のうちに描かれた像のみを観念と呼ぶのではない。それどころか、それが身体的な想像においてあるかぎりは、つまり脳のある部分に描かれてあるかぎりは、私はそれをけっして観念とは呼ばない。むしろただ、それが脳のその部分に向けられた精神そのものに形相を与えるかぎり、観念と呼ぶのである。
『デカルトはそんなこと言ってない』でカンブシュネルも強調するように、ここでの「観念」の概念は、〈思考の仲介〉をなすものです。この定義文では「形相 forma」という言葉が使われていますが、これは、「知覚がそのうちにおいて生ずる型」です。この型は、人が思考を〈何かについての思考〉とするための手がかりであると見なせるでしょう。(その〈何か〉が、型として、人間の精神に備わっているようなイメージでしょう。)
ところで、現代における「観念」には多分そんな意味はないでしょうし、デカルトより少しあとの、バークリにもなるともはや意味が全然変わっています。「観念」は、知覚されるものという意味になってしまっており、これはまた別な哲学用語の「表象」のようなものです。もっとも、バークリの場合は、この観念(idea)を事物(thing)と同一視するところに特徴があるので、それを「表象」と言ってしまっては台無しになってしまうでしょうけれど。
カンブシュネルは、「観念」という言葉がデカルトのすぐ後の時代にどう捉えられたかについて、アルノーとマルブランシュの例を紹介しています。今、マルブランシュのものだけ紹介すると、彼は私たちが見たり感じたりするのは物体それ自体ではなく物体の「観念」だけだと言いました。すなわち、ここでの「観念」は表象されるもの、知覚されるものです。そして、こういった「観念」を私たち自身は生み出せないので、神がそれをたえず私たちに感じさせていると言いました。これもデカルトの定義とは全然違います。
デカルトの「観念」の定義がスコラ哲学のそれを継承しているかといえば、それもちがいます。むしろ、デカルト以前に「観念」という言葉をこんな風に使う人はいませんでした。(これはマーフィーの『プラグマティズム入門』で解説されていました。)そして、デカルトから先の人も、デカルトが使ったとおりに「観念」という言葉を使ったわけではありませんでした。ということは、そこにはデカルトの独自性がある。この独自性は、デカルトをそのものを読むだけでも感じられるものではないかと思います。
スコラ的な用語についてですが、例えばちくま学芸文庫の『省察』なんかは、注が大変豊富ですので、注を読みつつ本文を読み進めていけば、スコラ用語についてちょっと触れられるんじゃないでしょうか。また、デカルトの『方法序説』とか『省察』とかはけっこう「ラディカルなことしちゃうぜ!」ってかんじなので、本筋を追うかぎりではそこまでスコラ的な前提は要らないのではないかとも思います。もちろん、言葉遣いとかはあるでしょうけれど。
カンブシュネルは「観念」と「表象」がまったく別物だと考えている 130
観念=表象 という見方に近い。この見方は現代にも引き継がれてるだろう久住哲.icon
バークリにおける「観念」
観念=表象のルートを引き継いでいる
「心」は能動的、「観念」は受動的
この言葉の意義は:観念は、知覚されているだけで存在するに十分である。そこに更に、それ自体は知覚できない実体みたいなものが必要だ、なんてことはない、ということ。久住哲.icon 🙏(ありがたい)