創作しくじり先生
・自分のキャリーオーバーレベルのボリュームの創作を始めてしまい、結果的にうまいことまとまらずに未完で長文の創作もどきが出来てしまう。
ケースその1:プロ作家の真似
端的に、技術もないのにプロ作家の真似をして結果、痛い作品になって後悔しちゃったよ、という話
しくじりその1 彼は自虐的なラノベ作家だった
その作家は滝本竜彦。私が今でも敬愛するプロ作家の一人だ。しかし、彼の作風はいかにも自虐的だった。まるで小説内の主人公を自分の分身であるかのように見立て、赤裸々に描いていたのだ。 きっと私は彼が人間的に好きなのだ。だからか、描かれている小説の主人公がまるで自分であるかのように感情移入することができた。
しばらくして、私も小説を書いてみようと思い立った。基本的に小説をあまり読まない人間だったから、小説と聞いてイメージするのは滝本の作風だった。ああいうのが小説なんだと思っていた。「似たような人間っぽいし、俺もあんな感じで自虐的に書けば良いものが書けるかも」
本気でそう思っていた。そして当時の私はラノベの書き方しか知らなかったのです……。
しくじりその2私は痛い人間だった
タイトル通りだが、痛々しい人間であるが故に、自分のことを正確に描写すると痛いのだ。それはもう、目も当てられない。書いたときは「中々良いかも……」と浸っていた私だったが、数ヶ月後に書いたものを読んでみると、発狂するくらいの羞恥が襲ってきた。
「ぎゃあああああ!!!」と一人部屋の中で声を上げたのを覚えている。今でもその古傷に胸が締めつけられるのだ。完全に黒歴史だった。あんなくだらないものを公開していたのだと思うと、外に出ることも憚られるくらいだった(もちろんユーザーネームだから特定されることはないのだが)。
しくじりその3 よくよく考えたら滝本もあとがきでそんなことを書いていた
おそらくトラウマとかそういうヤツのせいだ。そのせいで脳が奇病にかかった。ことあるごとにトラウマを思い出してワーと叫ぶこの奇病、小説を書こうとするたび脳がワーとなるこの奇病によって、昼夜私は脳がワーとなり、そのせいで小説が書けなくなってしまったということだ。本作の執筆過程における限界を超えたストレスが私の脳をパーにしてしまったということだ。
つまり私は本作執筆時に味わった恐ろしい恐怖のせいで、もう小説執筆がイヤでイヤで、とにかくもうぜんぜん小説がこれっぽっちも書けなくなってしまったということなのだった。おぉなんという悲劇か! 本作を書いたせいで、才能ある(と自分では思っている)若い小説家が無能になってしまったとは!
文庫版あとがき『NHKにようこそ!』滝本竜彦著
知っていた。書いている時も分かってはいた。痛い人間が自分のことをさらけ出すとどうなるのか、滝本は示してくれていた。だけど、どこかで自分なら大丈夫だろうと楽観的に考えていたのだ。私は全く無名の駄作量産機であるからまだマシである。滝本はプロの小説家として、自分を赤裸々に晒した作品を世に送り出してしまったのだ(個人的にはかなり好きな作品ですが)。
今の自分はどうしたいのか
結局私は、今でも小説内で自分をさらけ出すスタイルはそこまで変わっていないが、少なくともラノベを書くのを止めた。文体を少し重くすれば自分のダメージが明らかに減退することが分かった。
また、今でも自虐性は文学的価値になり得ると信じている。作家のアイデンティティーの一つであると思うからだ。よく分からないが、作家性と言えるものかもしれない。なにかを書こうとする限り、自分という人間は、たとえそれがこの身を傷付ける行為だとしても、こうでしか作品を表現できないから仕方がないのかもしれない。
結論⇨痛い人間が自分のことを書くと後悔することがあります。滝本龍彦は自分の身をもってそれを示してくれているのです。
くま子.icon確かにしくじりなんだけど滝本愛が炸裂してるだけかも
くま子.icon結局、丁字さんより長々と書いてしまって申し訳ないです……
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ケースその2: 要素を詰め込みすぎる
・端的に、意思決定しろ、責任を取れという話(リスク回避のために色々詰め込むのはダメ)
しくじりその1 自分の好みが出すぎる。しかも全部詰め込む。
私は色んな登場人物が出てくる、1日30品目取れる、栄養たっぷり幕の内弁当、懐石料理を作ったつもりだった。
(どれか1人は気に入ってくれるキャラがいるんじゃないか?)
けど友人は「カレーにイチゴジャム イナゴの佃煮 生クリーム 醤油、たくあん、納豆 キムチ、パクチー、全部入ってて、1つの料理になってる」と評してきた。カオスすぎてまるで読めない。もっと読む人の気持ち考えてと言われた。
色んな事わかってます!アピールをしたかった若かりし頃なので、引き算ができてなかった。素材の味を活かすじゃないけど。
しくじりその2 八方美人が災いする
(伝えたいテーマが特にない、だから色んな要素を出してお茶を濁す)
どの陣営にも味方しないような曖昧な結末にした。すると講評会で酷評の嵐だった。八方美人すぎて何が言いたいか、わからない。いい子ちゃんに世界は変えられない。私は「中高で、生徒会とかしてて、調整役をしたりしてて、ヤンキーにも優等生にも好かれてて、不登校にもイケメン美女にも態度変えずに同じ振る舞いを出来るってことが私の売りだったんです!!」って言ったら、おめぇのイイ子ちゃんアピールに付き合わされるこっちの身にもなれ。オナニーかよ。って言われた。教授には「悪人ほど面白い脚本を書く。つまらない脚本は大抵善人が書いてる」と肩を叩かれた。
しくじりその3 要素と要素が打ち消しあって良さが消える
前半部と後半部でガラッと180度、雰囲気が変わる作品を作った。新鮮さが出るかな?と思った。私生活もイライラしてた。
すると友人から「前半部すごく良くてほのぼので癒されてたのに、なんで後半こんな慌ただしくなっちゃったの?前半部に抱えてた私の気持ち返して欲しい。なんか、仕事終わりで疲れて帰ってきたら、癒し…じゃなく、試練関門が待ってたみたいな気分。もうあんたの作品読みたくない。」と言われた。
今の自分はどうしたいのか
1について 省エネしないこと。たくさん作品を書く。無理やり1個の作品に詰め込まない。引き算の美、間引き剪定。
2について 映画クラッシュ(2005米国アカデミー作品賞)に影響受けすぎた。世界認識は八方美人でいいと思ってる。けど
鑑賞後に読む人、観た人にどういう心境になってほしいか?はやはり八方美人じゃだめ。1つの明解なアンサーを持つべきと思っている。群像劇は難しい泣
3について 自分の中の内証が全部片付いてからじゃないと、周囲に優しく出来ないなぁと思う。奉仕の精神…というか。
結論⇨確かに世の中は色んな人も考え方もあるし、扱う情報量がとにかく多い。けどその中で意思決定をしないといけない。嫌われる勇気を持つ…というか。曖昧に濁せば、確かに傷つかない。けれどやはり要素を整理できない人間は出世できない。自分も部屋掃除できてない人間とか物を捨てられない人間見ると、結構いろいろ思うことがある。