判断力とは【純粋理性批判】
原則の分析論[3p21〜]
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title 第2篇 原則の分析論
序<br>超越論的な判断力一般<br>について
第1章 <br> 純粋な知性の概念の<br>図式論について
第2章<br>純粋な知性の<br>すべての原則の体系
: 第1節 すべての分析判断の<br>最高原則について
: 第2節 すべての総合判断の<br>最高原則について
: 第3節<br>純粋な知性のすべての<br>総合的な原則の<br>体系的な提示
第3章<br>すべての対象一般を<br>感覚的な存在と<br>叡智的な存在に<br>区分する根拠について
B171
Wenn der Verstand überhaupt als das Vermögen der Regeln erklärt wird, so ist Urteilskraft das Vermögen unter Regeln zu s u b s u m i e r e n , d. i. zu unterscheiden, ob etwas unter einer gegebenen Regel (casus datae legis) stehe, oder nicht.
【拙訳】悟性が総じて規則の能力だということが分かれば、判断力というものは、規則のもとに包摂する能力――すなわち、何かが所与の規則に従っているか(casus datae legisであるか)否かを判別する能力であるということになる。 悟性は思考する能力
思考は概念による認識(2p52)
ここでは、悟性が「規則の能力」だとした場合の話がされている。
関連箇所
しかしある個別の事例がこうした一般的なもののもとに具体的に属するかどうかを、判別できないことがあるだろう。[3p23]
だから一般論理学が、何かをこうした形式的な規則に包摂しようとする場合には、すなわちあるものが、こうした形式的な規則にしたがうかどうかを判別する方法を、一般的に示そうとする場合には、別の規則にしたがわなければならない。こうした別の規則もやはり規則であるからには、あらたに判断力の指示をうける必要がある。このことから、規則を使うことで知性を教えこんだり、整えたりすることはできるが、判断力は特別な能力であり、これを教えこむことはできず、たんに練習して鍛えるしかないことが、明らかになる。 3pp21-22
カントはこうした事情から、注において「馬鹿に付ける薬はない」のようなことを言っている。
判断力が欠けている人は、本来は愚鈍な人と呼ばれるのであり、この欠点は是正することのできないものである。[……]こうした欠陥は改善の見込みのないものである。
以下の文のあとで引用している
志向性の規範的次元をめぐって基礎的プラグマティズムを支持する代表的論法は、後期ウィトゲンシュタインを通じてよく知られている〔無限〕後退の論法である。その論法は要するにこういうことだ。規則ないし原則として明示的に表象される規範という観念それ自体が、実践に陰伏する規範という観念を前提している。というのも、規則を適用するということは、それ自体が、正しくなされたり誤ってなされたりすることの可能な何かだからである。さらにその規範的評価が、何か他の規則を適用するという事柄(これをウィトゲンシュタインは「解釈 [Deutung]」と読んだ)としてしか理解できないならば、私たちは実りのない後退をはじめてしまう。これもまたカントがすでに了解していた論点であり、この点はカントの、概念を(判断に対する)規則とみなすという革新的な規範的解釈の本質的部分を成している。