語りうるもの
「語りうるもの」はヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』における概念である。「語りえないもの」と対になっている概念であるが、ここでは「語りうるもの」を中心に書いてみたい。
『論考』における「語りうるもの」とは何か。これは抽象的に答えるならば、答えはシンプルである。それは現実世界から写し取ることのできるものである。これを「写像理論」という。現実から像として写し取ることのできるもの、これが「語りうるもの」である。(『論理哲学論考』の言語観、像 参照)
「語りうるもの」はヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』における概念である。「語りえないもの」と対になっている概念であるが、ここでは「語りうるもの」を中心に書いてみたい。
『論考』における「語りうるもの」とは何か。これは抽象的に答えるならば、答えはシンプルである。それは現実世界から写し取ることのできるものである。これを「写像理論」という。現実から像として写し取ることのできるもの、これが「語りうるもの」である。(『論理哲学論考』の言語観、像 参照)
それではヴィトゲンシュタインの哲学は前期から後期にかけて何が変わったのでしょうか。
もちろん多くの要素がありますが、その中で一つ。
「言語観の変化」があります。
まずは「前期」について。
ヴィトゲンシュタインが『論理哲学論考』の中で考えていた言語は、このような言語でした。
写像理論と個物は相性が良い。だが、ヴィトゲンシュタイン本人はそれに気付いていないかもしれない。なぜ彼が『論考』以降に個物に惹かれるのか。実は、写像理論にその萌芽がある。一方、彼の思いとは裏腹に、徹底した写像理論は言葉とは相性が悪い。なぜなら、固有名を除けば、言葉には必ず一般性が含まれるが、徹底した写像理論は一般性を排除してしまうからである。
『論理哲学論考』における「実体」という言葉について
なぜ実体が必要になるか?
それは、写像理論で世界を説明するためだ(2.0212)
それくらい写像理論が論理哲学論考では重要
最終的には、「世界」を定義するために、実体も必要とされる