写メ相当の短歌
散歩していると、「あ、これを短歌にしたいな」と思うナニカに出会う。もちろんこういうことは、自然現象のように起こるわけではない。私は一時期、毎日題詠を詠んでいたし、令和3年の目標は、1000首制作だった。年間で1000首読むためには、単純計算、1日3首くらいのペースでの制作が必要になる。毎日ずっと短歌の素材を探しつづける日々だった。今は全然短歌を作らないけれど、その時期に習得された短歌モードみたいなものはどこかで生きていて、散歩などをしたとき、勝手に起動するようになってしまったようだ。ちなみに、1000首は無理だった。 これを短歌にしたいと思ったら、まあ、短歌を作りはじめる。必然的に、いくらかの時間を、詠まれるべき事象に注ぐことになる。つまり、アレを歌うためには、どう言えばいいのかと思いを巡らせる時間が発生する。だからだろうか。短歌にしたいと思ったモノは記憶に残る。ましてや、短歌の形にしてそれを記録に残したならば、その短歌を読むと、その時の記憶がよみがえる。……まあ、あまりにひどい短歌は、そういうスーベニアの機能すら果たしてくれないのだが。 ぜんぜん関係ない話なんだけど、今日ネットニュースで見たんだけどさ、今の若い子は語尾に句点がついた文章を読むと、怒ってると思うらしい。どこまで本当かわからないけどさあ。……ごめん。思い出しただけ。 短歌は思想または感情を創作的に表現するものだと思っている。あ、これは「著作物」の定義です。つまりは、表現である。けど、スーベニアとしての短歌はべつに表現ではないよねと、思う。それはいわば写メのようなものであって、現像のために、思いを巡らす時間が必要な、映像的ではない写メ。私が言いたいのは、表現ではない短歌があっていいよね、ということだ。 夕食を思い細路にさしかかり討たれた人のような紫陽花
この短歌は2022年の7月24日に作られた短歌だ。この短歌を読むと、その日の気温や、夕時の空の色まで思い出せる。紫陽花の花は、地面に近いところに変に伸びていて、まるで斃れているようだった。
けど、この短歌って何も表現していないよねと、思う。思想も感情もないよねと。たぶん、そうなんだと思う。これは、私が7月24日に出会った風景のスナップショットでしかない。つまり、とても個人的なもの。 きっと、これは私だけひとりで持っていてもいいものだ。それは、美味しかったラーメンの写真を、自分のフォルダに入れておいたら、それだけで十分なのと同じだ。そう、私はその写真を、家族や同僚や遊んだ人に見せる。「美味しそうでしょ」と。この短歌も、そういうテンションでDiscordやTwitterに投稿してんじゃないかな。 そして、やはり、ラーメンの写真をSNSに上げるって、表現ではないよね。もちろん、まったく適当に撮ってるわけじゃないから、そこに私のなにか、美意識みたいなものはある。短歌もそうだ。けど、これは「芸術」や「文芸」ではないなと、思う。なんというか、詰めが甘いっていうか。だって、写真だって、iPhoneで撮ってるわけだから。まあ、今のiPhoneはすごく画質がいいけど、自分のiPhoneは別に最新のってわけでもないし。この短歌だって、最近開発された技術もこれまでの歴史的蓄積も取り入れていない。それは「文学」に値しないだろう。 つまり、短歌って詩なわけだけど、写メくらいフランクなものにもなりうるんじゃないかしら、っていう。 ゴミ箱に麦茶を入れて飲みやすいように切り口もつける ド深夜
この短歌は完成度が低いと思う。「切り口」っていう語の選択が甘いし、「飲みやすいように」っていうのが説明的だし、「ド深夜」が蛇足のような気もする。完成度が低いっていうのは、写メでいうところの、画質が粗いって感じなのかなと思う。ピンボケとか。
けど、この短歌を読むと、この私ひとりは、あのときのあの暑さを思い出す。そして、もちろん、当然、私はゴミ箱の色だって知っている。たぶん、私はこの――ちらっと横に置いてあるゴミ箱を見て――ゴミ箱を捨てたとしても、この短歌を読むと、ゴミ箱の色を思い出すんじゃないだろうか。
ラーメンの写真を撮って、どうするんだろう。日記を書いて、なにになるんだろう。短歌を詠んで、仮にそれを人に見せもしないし新聞に投稿もしないで、なにしてるんだろう。そんなことは思わなくていい。……と言うほど、ナイーブにもなれない。微妙なところなんですが。
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