人は記憶が無くなるとどうなるか
動画:試合を終えて
朝倉未来敗戦後の動画。人の記憶がなくなるとどういうことになるか、というのをまざまざと見せつけられる。今までも書物や概念としては人の記憶がその人を形成しているというのはわかってはいたことだけど、それをリアルに見せつけられた。たぶんこういうのって本来は公開しない類の映像だと思うけど、そもそも撮ろうとも思わないだろうし、それを公開するのが朝倉未来らしい。朝倉らしさといえば、記憶がなくて自分が誰かもわかっていないんだけど、それでも決断の早さや分析力、人に影響を受けない感じなどの彼らしさというのは残っていて、そこは記憶とは関係ない部分ということなのだろう。普段から「自分を客観的に見る」というのはよく言うわけだけど、もうそういうレベルの話でなくて、言葉の真の意味で「自分を客観的に見る」という状態が生じている。ネットで自分を検索して、自分を学んでいる(有名人にしかできない)。「自分」というのが一体何なのか、考えさせられる。こういう系の勉強をしている人、哲学とか心理学、脳科学とか、自分とは何かとかアイデンティティの問題とか、そういうことに興味のある人にとってもめちゃくちゃ貴重な映像だと思う。朝倉未来のことだから消すということは無いとは思うが、見れるうちに見ておく価値のある動画だと思う。 「朝倉未来って生意気なやつだね」と朝倉未来が言っている。「生意気」という性質は基本的にはその人の性格から出るものだけど、「自分は生意気なやつだ」という自己認知から出るものでもあるのだろうと考えさせられる。つまり、生意気な朝倉未来が記憶がなくなると、生意気ではなくなるという状態も生じるのかもしれない。人は自分がこういうものであると自己認知している状態に合わせて振舞う側面もあるということ。
ここにいる人物を朝倉未来と呼べるか否か。呼べる理由としては、一つにその身体である。その身体は紛れもなく今まで朝倉未来と呼んできたものと同一の身体である。もう一つはその性格である。記憶が無くなり、上にも書いたように自己認知が無くなっているので、若干の変化はあるものの、これも上で書いたように(「決断の早さや~」)基本的な性格はそのままである。器と内容という比喩を使うならば、記憶という内容は無くなっていたとしても、それを盛る器は変わらず存在していると。だが一方、呼びたくない理由もある。まずは近い記憶、ヤーマンに負けたことや数日後にブレイキングダウンのオーディションがあるということ、こういうことを自分ではわからず周囲からの情報でかろうじて補っているということ。そして遠い記憶、いわば自分の人生史というものも丸ごとない。さらに上にも書いたように、「自分とはこういう人間である」という自己認知もない。我々が通常名前を呼ぶ人物に対しては、暗黙の了解で少なくともこれらの3つの要素位は想定している。これらのことを総合的に含めて、我々はその人をその人であると認識しているのである。これらのことが欠けているということから、普通の意味では朝倉未来と呼び難い何かがあるのもまた事実である。