五番地の嫌いなもの
エッセイ的なボヤき的な。突っ込み、煽り、屋上や校舎裏へのお誘いもといお喋りへのお誘い、なんでもござれ。
フェミニズムとかヴィーガニズムとかアンチフェミニズムとかアンチヴィーガニズムとか
私がTwitterを離れたのはこのあたりが最後の一押しになったんだっけな。女から距離をとるようにする心がけをより強めたのもここらへんか。1人でフェミニストやジェンダーまわりの話を考えたり調べたりするのはまったく問題ないが。
フェミニズムを掲げるアカウントを一つ二つ炎上させたり叩いたりしたところで何にもならないし、似たような事例で毎回毎回盛り上がるのも無駄にしか思わない。ウマ娘がどうだのこうだのもあったと聞いたけど、なんの感情の起こりもない。
そんなのよりかは、フェミニズムのここが問題で、その問題はフェミニズムにとって不可避の問題だから、それをカバーするにはどうすりゃいいのかみたいなんのほうがまだマシだろう。
フェミニズムが先ず女の扱いやなんやの改善を求めるものであるとして(ケイト・ミレットは貧しいものや黒人たちを意識していた(『性の政治学』、ドメス出版)ようだが)、その改善のための行動は必ず、主題たる「女」以外の様々なものたちの利害を左右するものだ。ヴィーガニズムの場合、食肉生産に関わる者たちの生活がよく挙げられるように。行動には必ずそういう副産物がある。
私が嫌いなTwitterでは、そういう副産物を意識する、そういうのに配慮するみたいなんよりかは、「フェミニズムは正しい」みたいなんが良かれ悪しかれ人気なようだった。「ヴィーガン 」にしろそう。
これはこれで平和な争いーー互いに何も変わらず、互いに嘲りあってるからーーであり、むしろ本当に自分を否定するような〈変化〉が、いわゆる「改心」とか「反省(精神的な自殺みたいなもんか)」が起きたりすると大変だから、アレはまだマシなほうなんだろうとは最近は思ってる。「男は権力者。支配欲(?)がある。女性差別的な家父長制度的な社会の担い手」みたいなん聞いて真に受けて鬱になったり自傷したり自殺したりなんてしないわけだから。平和、平和。
とは言え、自分が是とする状況が実際の状況であるべきだと言うとき、それを実現するための行動がもたらす副産物に頓着しない様は、見ていて気持ちが悪い。「弱者」だ「強者」だなんてのもくだらない。
主題たる「女」以外、ということで言えば、私に関わる話だと「コンビニのエロ本にカバーをつけるべき」とかそんなんがあった。この場合、エロ本につけるカバーを買うのはオーナーで(何の利益にもなりやしないものを買うほど嫌なことはない)、カバーをつけるのは夜勤かな。レジでカバーを外して回収しないならカバーはたくさん買わなきゃならなくなるが、カバーを外すのは女の店員でもありうるわけだからこの点は「環境型セクハラだ」とか言って却下されたに違いない。そこらへんはフェミニスト様からすりゃあどうでもいい、あるいは、せいぜいこういう風に「どうでもいいんだろ、ケッ」みたいなん言われたらとりあえず否定する、程度のものだろう。否定しとかないと印象は良くないから、しかしわざわざそんな気持ちの悪いものに自分から言及するほどのリスクはとらない、ってところだろう。そこまで考えもしてないのが大半の実情だろうけど。
結果として、エロ本は無くなる方向になった。返本は楽になった。ただ、毎度『ピザッツ』を買いにきていてお爺ちゃんは店に来なくなった。近場に書店もないこんな田舎じゃあネットで注文するぐらいしかない。あるいは隣駅までいくしかない。セクハラに比べたら爺ちゃんのオカズ事情なんて瑣末でとるに足らない、むしろ気持ち悪いし、「女の物化」の撲滅に一歩前進イェイイェイ! ってなもんなんだろう。それが気に入らない。まったくもって気に入らない。言われたら否定するのはわかってるし、その場では否定しても似たようなことがありうるケースでも結局は、そういう気色わるくてとるに足らない底辺のオッさんのこととかへの配慮なんて自分から言い出せやしない。「決めつけ」なんて言われるかもだが、アレだな、男が夜道で後ろを歩いてたらとりあえず警戒するのは大事なことだが、私にとっての「フェミニスト」ってのはそんな感じのもんだっていう。女だろうが、調子に乗るのが許されてる感じの状況なら、「家父長制(‡パターナリズム)」って言われてるようなんと変わらんことやるだろう。「女には生来の協調性がー」とか言うなら知らんけど。
BLや薔薇的なあれこれがもっと流通してほしい、女がエロ本をコンビニで買う時代に! みたいなんなら歓迎だなぁ。そういうのもチラホラ見かけたのは好ましかった。しかしヴィーガンだったら人工肉とか面白そうな商品がありうるが、フェミニズムだとあんまそういうのが目立たないのも残念。禁止や規制が目立って暗い。
「真実の愛」とか
「真実の愛」とかそういうのを見るとなんだかなぁという感じになる。「本当の自分」とか「相手を理解する」とか「エゴ(利己性?)」とかわけのわからない話ばっかりだから。いまちょろっと検索してみたがなんのこっちゃかわからんかった。「真実の愛のためのコツ」とか、ハウトゥ本かなにかみたいなん書いてあったが、失礼な話だ。
「本当の自分」なんてもんがあるわけではないが、そういうのんを重視して「自分を理解」してこようとする他人なんか面倒臭いったらないだろう。「本当に愛し合うために」みたいなんで正当化してきたらさらに面倒臭い。
一冊の本ですらその解釈は多岐に渡り、一つの解釈のみが正当性を有するわけではないし(「どんな解釈もオッケー」みたいな話はしてない)、「読み終えた」本でも読んでいたらまた新たな発見があったりするもんだ。書物の場合も似たようなもんだが、人間の場合、或る出来事の意味がその後の出来事によって左右され、その出来事にまつわる人物や事物やなんやかんやへの理解も左右される。だから「本当の相手の心」みたいなんをその相手の外見(発言、所作、地位などなど)から探るなんてのは、「心」を軽んじている。
「本当の愛」とやらのために相手の外見について目を皿に耳をダンボにして注意を傾けるとして、「本当の愛」とやらを実現する相手に相応しくないと判断したとき、そのために相手を捨てるならひどい話だ。「本当の愛」とやらのほうが大事なのか、その相手のほうが大事なのか、みたいな話とでも言えるのかな。「本当の愛」とやらをどんだけ分析しても私の相手の◯◯さんっていう固有名は出てこないから、当然そうなるか。
ちょろっとまともに意識すれば、或る年の或る月の或る日の時点で「相手を理解した」として(引用符つきでも気色の悪さが拭えないな)、5年後も10年後も相手はそのままなのか、「相手を理解した」とか言うが相手の何を「理解した」のか、色々な疑問が出るもんだろうに。
相手のことを思うから、嘘をついてでも嫌われるよう仕向けて未練のない別れ(死別であれなんであれ)にしようってこともあるだろうし、『ファブル』のヨーコの幼少期のクリスマスエピソードみたく、お互いが知らんぷりをすることでクリスマスやサンタクロースの居る世界を守ろうとする(私はヨーコの両親もヨーコの知らんぷりに気づいていたことはありうると見なしている)。そういうのだってある。「真実の愛」とかいう大義名分は自分の知ってることや思ってることをベラベラ喋り散らかす免罪符にはなるんだろうが、そんなもん、イヤイヤでも聞いてくれる相手ならその人のほうが優しい。
相手の欠点も愛するみたいなんに至っては「何を言ってるんだろう」と思う。靴下を裏っ側にしたまま脱ぎっぱなしにするのとか殺してやりたいと思うし、街中を歩くとき広くもない道で人が前から来てるのに避けようともしなかったり、店が混んできたからぼちぼち出ようかと言っても金を払ってるからみたいなん言って居座ったりなどなど、生活上の様々な「些細な」欠点を愛するだなんて、たぶんラリった状態で書いてるんだと思う。愛とかそういうのについて書いてるうちに気持ち良くなっちゃったのかなとか。あとはたぶん、ああいうのん書く人は日常の「些細な」欠点との(度重なる)遭遇、およびその遭遇の積み重ねみたいな、そういう卑近なことには興味がないのかもしれない。相手が死んでからなら、裏っ側になった靴下を元に戻して洗濯機に入れる手間が無くなったことに気づいたときホロリと来ることもあるのかもしれないが。
相対主義者っぽいやつ
「環境が」「時代が」「背景が」みたいな尤もらしい話は基本的に嫌い。結局のところその「背景」とか「環境」とかについて何もわからないし(せいぜいパラダイム(範例となる個別の事態)を持ち出すとか?)、たいていは倫理学での心理主義、情動主義につながるつまらないもんだから。
より素朴な
女は買い物が長い、男は立ち読みが長い。
「(メビウス)10mg」「はーいメビウスですねーソフトでいいですかー」「ソフト」とレジ前まで持ってきてからの「2個」。
そっちが横に避けるべきところを避けない女。こないだ前の方を歩いていた女が横に避けるさい自然に後ろを確認していて「おぅ、素敵な人だな」と思っちゃうぐらいには気にする。あぁいうのはスポーツをやってたかどうかってのも関わるんだろうか。