ライティングマラソン(c)01
感想:“終わらないと気がすまない”と“校閲しないと死ぬ”があるので、脳直するのめちゃめちゃムズい。
いっぱいずるした。うぇーん ><
001
ライティングマラソン。ライティングという言葉とマラソンという言葉は、どうも取合わせが悪いように思う。これは、何か苦さや齟齬が生まれる、というわけではなく、“書いている”ということと、“走っている”ということの、動作的イメージが、静と動でちぐはぐな感じがする、ということだ。
しかし、それは本当だろうか?確かに一見、書くことは部屋の中で、ひとり、机に向かってすることのように思うし、走る、という言葉が持つイメージ。外で、日にあたって、汗をかきながら、というものとは相反するように思う。それでも、似通ったものはあるのだと思う。
筆が走る、という言葉がある。これは文字の通り、何かものを書いている筆――これは広義の。キーボードだっていいだろう。――が、文字を、まさに走った軌跡のように、足跡のように連ねる様子のことを言っている。
書いていても、走ることは出来る。であれば、“マラソン”をすることだって出来る。
マラソンにはペース配分が大事だと、誰かが言ったかもしれないし、言ってないかもしれない。そのようなことを誰かが言ったということにしておく。ということは、このライティングマラソンも、ペース配分が大事だろうか。
けれどぼくはどうにも、“ペースを考えて書く”というのはふさわしくないように思う。マラソン、と題されているとはいえ、この儀式には、休憩が存在する。いわば、短距離走の連続。であるならば、全力で、指が痛くなるまでキーボードを打鍵し、そして汗が吹き出るほどに必死に文章を考えなくてはならないのではないか。少なくともぼくは、そういった心持ちでこの儀式に挑んでいる。
汗がにじむ。その感覚は、普段書いているときには感じられない。息苦しくなって、キーボードを打つ指が追いつかなくなるぐらい文章が頭の中で生み出される。あるいは、指が先に動いて、それを必死に整合性を保とうとぼくの頭が回転する。そういったことに価値があるのかもしれないとぼくは感情を表す。
この感覚は不思議だ。何も考えていないのに、この画面には文章が書き連ねられていく。ぼくは思考などしていない、頭をひねらせて、唸って、何かを生み出そうともしていない。けれど、僕の指は自動書記のようにキーボードを叩き、前に連なる単語から連想する文章をいくつもひねり出す。手癖であることは承知の上だ。近場の引き出しをすべて開けて単語がどこに埋まっているのかもわからないまま、まるでドラえもんが焦ってひみつ道具をばらまくときのように、あれじゃないこれじゃないといくつも単語を出す。
そうなったとき、いいことは、“探している単語が、そもそもぼくにはない”ということだ。何かの単語――例えば、書きたい詩的な文章に当てはまる、的確な表現――そういうものを探しているのであれば、先程言ったように、“あれじゃない、これじゃない”と単語を次々捨てていかねばならない。しかしこの行為には、当てはめられるものはない。いや、“引っ張り出してきたすべての単語が、そこに当てはまるべきものだ”といえるかもしれない。
そうしたとき、ぼくはなにかの枠組みから外れて、自由になる。美しい文章、言語化として的確な言葉、詩的で心を動かすもの。そういった意識からはずれ、ただたんに、言葉の海に溺れる事ができる。(といいながら、ちょっとだけ詩的な言葉を散りばめてみたりする)
コレは何かに似ている。とそう書けば、僕は何に似ているのだろう?と探し出す。一番近い体験は、卓球をやったときだ。ぼくは、試合の勝ち負けや、技術のうまさなんかに、あまり興味はなかった。ただ、“ラリーがつづくこと”、それ自体が嬉しくて、楽しかった。あの白く丸い、少しの風でも煽られる軽い球が、ラケットで擦ると、自在に変化し、叩けば、僕の中にはなかった気持ちのいい音で跳ねる。手には叩いた感触が、――実際にはラケットにあたったのだから、“手には”というのはおかしいのだけど、でも確かに――残る。ぼくはそういったものが好きだった。
小説を書く、ということは、どうしようもなく苦しい。思いついたシーンを、文章を書くために、全く頭の中にないストーリーの辻褄合わせをしなくてはならない時がある。思いつきもしない、時には書きたくもない文章を必死に“それらしく”整えなくてはならない。
即興小説、ほんとうの意味の即興。それには、“それらしく整える”ことを放棄するという勇気が必要だ。
その勇気が持てずに――あるいは、思いついたものを形にしない勇気を持てずにいるから、ぼくは、書くことができないのかもしれない。
002
“書くことが出来ないのかもしれない”。ぼくは最後にそう書いた。けれどどうだろう。ぼくは“書くことができていない”のだろうか?
まず最初に、ぼくがぼくへ送るものは、「そんなことあるはずがない」だ。ぼくはぼくのことを、「書かなくては生きていけない、いきもの」だと思っている。だからこそ、自己定義にそぐわないその事実を、一瞥もせずに棄却する。
ほんとうにそうなのだとしたら、ぼくが書いているものとはなんなのだろう?
ぼくが遅筆である、ということは事実に思う。(じつのところ、ぼくではなく、“僕”が正しいかもだが)
書こうとしていた小説はプロット段階で止まり、冬が過ぎ、もう実感が離れてしまった。また冬が来る頃にはすっかりその感覚を忘れ、何も思い出せずに、死蔵されるだろう。そういった作品が、ぼくのメモ帳にはいくつかある。
小説には旬がある。少なくともぼくのプロットには旬がある。期限切れがある、ともいえる。これが訪れると、ぼくはもう、“いつか書くだろう”と欺瞞を撒き散らしながら、その世界と作品を死蔵することになる。そうして、冷凍保存されたそれらは、空間を圧迫するように、ぼくの心のどこかにずんと重く沈んでのしかかっている。
何も書いていない。と、そう感じるのは、ぼくが、プロットのある小説を覚えたからだ。昔はもっと無邪気に、ただただ思いついたものを文章にしていくことが楽しかった。(昔と言っても、それほど昔じゃないんだけど)
思いついた美しい文章と、それを書けるような土台。それがあれば、僕は十分に楽しく、美しく、世界を描くことが出来た……かもしれない。小説を書く人間のひとつのサガとして、ぼくはこうして文章を書き始めると、勝手にドラマティックにしてしまうから、本当かはわからない。
まぁ、何はともあれ、ぼくは、いくつかのときに、「プロットを考えた小説を、死ぬ気で書き上げる」という快楽を覚えてしまった。そこにはテーマがあり、そのためのストーリーがあり、そのための文章があった。僕は、伝えるということの快感を、どうしようもなく焦がれるようになってしまった。
ここには世界がある。頭の中で、心の中だ。ここには世界がある。僕の外にあるそれとは違う、けれど同じ、世界がある。
ぼくはいろんなことが言いたくなった。この世界に生きていることは苦しく、そして痛い。何もかもが汚く見えて、穢れ、疲れ、ため息をついて、死んだように生きる心持ちが、どんどん侵食してくる。
けれど、どうだろう。上を見上げれば変わらず青空はきらめいている。耳をすませば葉擦れの音が聞こえ、鼻から胸いっぱいに空気を吸い込んでみると、どこかから花の匂いがする。踏みしめる地面は、材質によって違った感触を伝えてくる。誰かに触れれば、きっと温かい。我慢するのをやめて、泣き出してしまえば、世界は単純で美しくなる。
ぼくは、そういうことが伝えたくなった。見方を変えろ、なんて傲慢なことは言うつもりがない。ただ、“何か”によって、世界がきらめく様が書きたかった。自分は変わらないままで、世界も変わらないままで、ただいつのまにかきらめき始めるその幻想によって、ほんのすこしだけ変容する誰かの話が書きたかった。
灰色の中でぼくは、色彩豊かな世界をみつめている。ここには無彩色のものばかりがあって、だからこそ遠くの鮮やかなきらめきが見える。何もないと嘆くよりも、なにもないからこそ見えるものを大切にしたいと思う。
じゃないと、かなしくて仕方がない。
きらめきが見えるから、ぼくは今日も生きている。
僕が生きている理由を、ぼくが見える世界を、誰かに共有して、ただ、ひとこと、“とてもよかった”と、すべてを見通して、こぼして欲しい。
おわっちゃった。この儀式、とても心の内が暴かれていくので、どんどんエモーショナルな文章になってしまう。もはや黒髪ロングミステリアス女生徒先輩の話をするしかないのではないだろうか。
003
タバコを吸ったので落ち着いたが、ぼくの個人プロジェクトにもある通り、煙草で落ち着けるのは二本目からだ。一本だけしか吸ってないのでほんとうは落ち着いていないかもしれない。
産駒さん(名無しさん)のライティングを聞いて(ライティングを聞いてってヘンだけど、そうなんだから仕方ない)これこそがライティングマラソンなのでは?という気もした。ぼくは結構テキストプレイ、という……なんていうの?クールがないけど30分~1時間のやつをたまにやるので、そういうので慣れているから、やけに凝った文章を書くのかもしれない。まぁテキストプレイでは誤字の変更とかが禁じられているので、そういうのはあるのかもだけど。ちなみにそのルールは基本的なルールであって、ぼくは普通に誤字を直すし脱字も直す。ずるだと思われるかもしれないが、ぼくはそれを放置していると何も書けなくなるほど重症なのだ。
ところで興味深い話があった。きれいなものときたないものの話だ。きたないものにきれいさを感じる人もいる、って話。
ぼくはこれは対比だと思っているけど、まぁその話をしてもぼくのScrapboxで話してるものの再放送になるのでやめておこう。
きたなさの中のきれいさ、というのは、まさにさっきぼくが書いたようなことだと思う。ちがうかもしれないけど。
もっと広く考えてみよう。ぼくは苦しんでいる子をかわいいとおもう。こう書くとなんかヤバい人みたいだけどちがう。言い訳させてほしい。苦しみっていうのは、がんばってないとうまれない。がんばってなくても、苦しみからは逃れたくなるのが人間だ。どうやっても、人間は苦しみから逃れようとするし、逃れようとしてやっぱり苦しみに捕まったりする。どうしようもないことをどうしようもないまま、それでもどうにかしようとするその営みにぼくは愛しさを感じる。
これはぼくの世界観――002で話したようなこと――につながっている気がする。ぼくは世界観のことを直接説明するのが下手だ。なにせ、それに対して的確な言葉をはめることができないから。一言で何かを言おうとすれば、必ず言葉は何かを取りこぼす。
ゆびがいたくなってきた。
言葉は何かを取りこぼす、という話は、何度もしていて、まさに手近な引き出しという感じだ。Scrapboxに書いたものはだいたい手近な引き出しに入る。一度言語化出来た概念だからだ。
言語化できて固定された概念は、扱うことがたやすくなる。それを人に説明することが出来るし、ぼくは人に何かを伝えることが好きだから、それそのものをどう伝えるか、ということに関して、余念がない。余念がないの使い方これで合ってる?じつはぼくは日本語力そこそこあるけど厳密な使い方がめっちゃきになって何もすすまない人だ。
崩れていくのが楽しみ、と言われていた。崩れていくというのはこういうことだろうか。さっきよりは脳内が直接ここに入っている感じがする。というか飛びやすくなった、というのが正しいかな。これは確実に、先程の読み上げが話題を往復するものだったからだろう。
ここで文字を遡り何を書いていたか確認することも可能だ。しかしそれをやることはしない。書きながら思い返すのが筋だろう。何に対しての筋かはしらないが、マラソン中にどう走ったかコース確認をするランナーはいない。いるかもしれない。適当を言っている。しかし少なくとも、ぼくは、未来のコース、ここからどう走るかという話になるだろうと想像しているのだ。
黒髪ロングミステリアス女生徒先輩の話をしようと思ったが時間がないのかもしれない。僕は創作において、多分、誰かに認められたい……というのは適切な言語化ではない。伝わった、という確証が欲しいのかもしれない。それは、詳細に感想を言われることではない。まさに上に書いたように“すべてを見透かして”その上で、ひとこと“良いね”と言われることだ。
そこには感情が籠もっている。感情が籠もっているから価値がある。そして感情は、僕の文脈を拾ったからこそ現れる。そういうことが僕は好きで、詳細に書かれる感想よりも、よりオタク的語彙を使うなら、“人が狂った”という感覚が欲しいのかもしれない。
ぼくは支配欲の塊だと、最近自分のことをよく言う。それはある意味で合っていて、ある意味で間違っている。“支配”という言葉で想像されるイメージとは少し違って、けれどより支配に近い。僕は、僕の言葉や文章や作品によって、人の感情や思考を埋め尽くしたいと思っている。それが出来たらなんて幸せなんだろう。
夏の日差しと青空が遠く輝いているように、それには手が届かないけど。手が届かないからこそ、書きたいと思うのかもしれない。
けれどたぶん、もっと“理想の”反応が返ってきたら、ぼくは、命を削ってなげうちながら、創作へ没頭するだろうな。ぼくの生きているかぎり、“それ”以上にしあわせで、価値があるものは――少なくとも文を書く僕は――ないと思っているから。
004
004であってたっけ?エナジードリンクをひとくちふたくち、煙草を一本。そうしていかないといきていけない。生きていけないわけではないが、依存する先があるってことは重要だ。
一度改行で区切らないと思考がそのまま文章を構築することに集中するので一度区切る。
胡散さんのよかったな。ぼくは声のオタクなんで、わりかし人の朗読が好きなんですけど、何より途中で笑っちゃったりかんじゃったりするのが好きでね……このひときもくない?オタクなんてみんなキモいんじゃねーのかよ。
カラスの話するか。烏の濡羽色、という表現がとても好きだ。烏という漢字が「目がないように見える鳥」というところから来てるのも好きだ。カラスが舞ってるだけで黒髪ロングはぐっと良くなる。この良くなるというのは、ミステリアスさが増し、“得体のしれなさ”“理解のし難さ”みたいなものがぐっと向上するというものだ。
どれだけ黒髪ロングミステリアス女生徒先輩の話がしたいんだ?
あの人と出会ったのは夕日が沈みかける茜色の教室だった。彼女は僕が忘れていった文庫本を、机に座って読んでいた。学校内では見かけたことのない人だ。これだけ美しければ、嫌でも目につくはずなのに……
などと書いていたら家族に話しかけられた。ネコチャン。ぜんぜんだめ。
なぜぼくは“ミステリアス”というところを一切抜かずに書くんだろう。やはり“理解の出来なさ”を魅力だと感じているのだろうか? そういえば、いちど、ぼくはサピオセクシャルあるいはロマンティックなのではないかと思ったことがある。サピオで合ってたかは自信がないけど、つまり“知的なひと”に恋したり性的欲求を感じたりするってことだ。知的であれば性別は関係ない。
これを見た時、わりかしそうだなぁ、と思った。性的欲求は置いておくにしても、どきどきして恋しそうにはなる。知的でかっこいいお兄さんにも、知的でかわいいお姉さんにもだ。うん?ぼくより上位の存在であることを年上であることに結びつけて考えている、ということが今わかった。新しい発見だ。閑話休題。←これ便利だからみんなも使ったほうがいい。
なんだっけ?頭からいろんなものが抜けてしまった。つまり知的であることはかわいいしかっこいいし魅力的ってことが言いたい。いいよね、知的さ……実際に知識がある方が良いけど、知的な雰囲気だけで素敵だなって思っちゃう。
※これは知的じゃない人が素敵じゃないということを意味しない。
ミステリアス。ミステリアスの話をしていた。神秘的と言い換えてもいい。僕は僕が解明できない謎が人物にあることを至上としている。至上というのは言葉の綾だけど、少なくとも非常に良いと思っている。だから心理学が好きだったりするし。
であれば、謎めいている、それを解明したがる、ということは、僕の根幹の何かであると思われる。何か、とはなんだろう。
解明したいという欲求は支配欲でもあるか。支配欲を便利に使いすぎな気がするけど。僕は僕の扱えないものを、僕の扱える範囲に限定することが好きだ。あるいは、すべてを見透かす上位者が、僕に興味を示すことかもしれない。“ああ、すくなくとも、この人は、ぼくのこの部分のことを、見てくれているのだ”という気持ちがする。
深い深い嗜癖の沼を潜ると、必ず自分の中の地獄に行き着く。今回は、“僕は僕を見られたくない”ということに行き着くかもしれない。“僕は僕ではなく、僕の持つ何かを見て欲しい”。なぜなら、僕は、僕それ自体に送られる感情や感想を、素直に受け取ることが出来ないからだ。
自らのことを全肯定されるなど、寒気がする。それならまだ、理想化された僕や、僕が書く美しい文章のことを褒められた方がまだマシだ。……いやね、もちろん、褒められたら嬉しいんだけどさ。それとは別に、心が不安定になるって話だ。
僕は僕が書く文章のことを、けっこう気に入っている。だから、僕の書く文章がすき、という人のことを、わりかし理解出来る。同じように、僕が表に出したものから、理想的な――僕が意図した――僕を読み取ってほしい。
005
はーいずるしました。しょうがないじゃんしまんは途中で文章が終わってるとしんじゃういきものなんだよ。
なんだかんだ読み上げは恥ずかしいなと思う。何も考えずに書いた文章は、検閲が入らない分、非常に繊細だ。だから僕はなるたけ考えて文を書こうとするし、なんなら自分自身のことを書こうとすることは少ない。
しかしこの催しは、わりかし自分のことを書かないと仕方が無くなる。なぜかといえば、まぁ、世界や美しいものの話だけでは何クールも走りきれないからだ。まるでトラックを変えて、コースを変えて走るように、気分転換しながら走らなくてはならない。
しかし、それでは少しもったいない気もする。先程の思索は結構ぼくの本質を捉えていた。ぼくは、わりかし自分の本質を見るのが好きだ。本質だからね。扱いやすくなるってこと。
ぼくは基本的に、他者よりも自分を低くするということに命をかけている。命はかけてない。認識の上では常にそうなるようにフィルターを掛けている。その理由は色々あるとは思うが……今すぐに思いつく理由は、さっき言ったようなこと。無彩色の世界にいたほうが、きらめきがよく見える。何も持っていないほうが、誰かの持つ何かに気づける。そういう思考がベースにある気がする。
僕を見てほしくない。僕自身を見てほしくない、というのは、恐らく防衛のひとつだろう。ぼくは創作がしたくて、世界のことを描きたい。それには、僕のことを誰も見ていないということが重要だ。ぼくは世界の観測者であって、部外者であって、だからこそ見ているその子達の美しさを描ける。……と、そういう感覚があったりする。
だからこそ、誰かに見られるのは、心臓を握られているような感覚がする。無理やり作り変えられて、握りつぶされて、呼吸が出来なくなって、その人の――僕を見ている人の――ことだけを考えなくてはならない気がする。
最近色々考える。ぼくの根源的欲求は「ぼくのことをみて」というところにあるのかもしれない、とか。けれど同時に、「ぼくをみないで」と思っている。見て欲しいという感情と、見ないで欲しいという欲求。アンビバレントな感情が僕を苛んで、その板挟みが歪んだ形で創作を生む。
結局のところ、みてほしい、とおもう、ということは、誰にも見られていない、と思っているということだ。そして、その「見られていないこと」が平常で、落ち着く、ということだ。誰かに見られているのは落ち着かない。僕は誰も見ていないところで、一方的に見ているのが好きなんだ。ストーカー気質とも言う。
空気になりたい、と思う。空気は、そこにあって、みんな吸い込んで生きているけど、誰もその存在を意識してはいない。けれど、恐らくなくなったら息苦しくなって、空気が必要だった、ということにみんなが気づくだろう。
この気持ちは、何かへの復讐なんだろうか? 復讐、という感覚はそれほどない。ざまぁみろ、とは思わない……あまり。ただ、必要だったんだ、と、気づかれずにそれを完遂したい。ええとつまり、必要である、ってことを気づかれず、けれど僕だけはこの人達に僕が必要だってことをわかっておきたい。
うん。やはり地獄の釜の蓋である。意味もなく綴るはずの文章がどんどん自分に近づいているのを感じる。指が痛い。どうにもこうにもこじらせているなぁ、という感じだ。
もはや、何か意味のあることを言わなくては、と思うのは病気かもしれない。そうしなければ存在出来ないと思いこんでいるか、そうしたくて存在しているのか、もはやわからない。
ただ、ぼくは 何か 楽しいと思われるようになりたい。有用性。必要性。楽しくなくてもいいが、そんなようなもの。最もわかりやすいのが楽しさや面白さだけど。
疲れてきたな。ねむい。やきんあけはつらかったのでは? ねればよかったのに。無理やりエナジードリンクでどうこうしているからこうなる。でも、だからこそ感覚の言語化が研ぎ澄まされているという気もする。感覚の言語化っていってみんなわかる?ぼくが心臓を握られてる感じを描写するってそういうようなことなんだけど。わかんないか。そうね。
まだおわらんか?ちょっともう書くことない。書くことはあるけど、なんか、ね。わかるじゃん?あんま地獄を深掘りするのは精神的に良くないんだよね。あとこのまま書いてるとたぶんまたずるするよ。最後まで終わってないと死んじゃうんだもん。うさぎなので。
もしかして書きながらの校正?校閲?もよくない? 完全に無意識で自然体にやってるからこれを抑えるのはめちゃくちゃ手間がかかる。今も「やめろと言われても」とかこうとしてやめた。
006
ずるしてない!(した)もうごめんって、もはやこれは病気なのよ。病気だからってルールを破ることが許されるのか?ぼくはゆるされないとおもう。でもさ、完結しようって思うことは本能だとおもうんだよ。そんな本能あるわけないだろいい加減にしろ。
なんか褒められたわね。まぁせやろ?ぼくは朗読が好きなので朗読が上手くなろうとしたことがある。しらんけど。
朗読に上手いも下手もない。ただそこには栄養がある。永劫回帰。そういうこと。
なに書こうとしてたんだっけ?オタクと穢れと信仰の話?また込み入った話になりそうだな。ちょっと考える事が多くて今の脳直状態だとちょっとできない。脳直状態でも校閲はしちゃう。こういう人間だから文章が掛けなくなるのだは?だは?て。じゃあもう今回は誤字とかは一回がんばってがまんしますよ。しょうがないな~
ぼくはわりかし白髪もすきですよ。しらがじゃなくてはくはつな。アルビノってかわいいよね。アルビノの蛇がめっちゃかわいいんだなこれが。脳直ってこういうことかな?ほんとうに?
テキストプレイと同じ感覚でやればいいってことならもう目をつぶって書いちゃうもんねで、もえあ もえあ?目をつぶってても誤字ったことはわかる。なぜなら生まれてこのっ肩キーボードと一緒だったので。肩が外れてるじゃん。読み上げたらこれ全然わかんないね。ちなみに生まれてこのかた、というのはウソです。まぁ言葉を発した数より打った数の方が多そうではあるけど。時間でいうと多分文字を考えてるときのほうが長いわね。あなただれよ。だれよその女。
まぁほんとうはぼくだって美しい文章を書きたいわけですよ。誰もそんなコト聞いてないけど。脳直で美しい文章をかけたらとてもいいことだとぼっくはおもうんだよねぼっくはねぼっくて。ボックスステップかよ。なんなんそれ?
な ん
そ れ
これはザズィーねザジーだっけ?R-1惜しくも準優勝でしたね、かわいそうに。
ああもう指疲れた、6クールなげえな。ていうか主催タイマー見れるのずるくないか?ずるくはないか。ぼくもタイマーつければいいだけだし、なんならこの、開始時間覚えて15分見ればいいし。
ああ、なんか結構がんばって校閲とかやめてたけど、やっぱ健康に悪いな。そういうものではないというのはわかるんですけど、明らかに文章を書くことへの拒絶反応がさ、あるわけですよね。アルファード。ほらもうダメだ。すべてのものごとが使い果たした語彙に飲み込まれていく。テイク。テイクツー。アクション!ライツカメラアクション ライツカメラアクションってどういう意味?よくHIPHOP的文脈で聞くんですけど古典の中のワンフレーズなのかな。にわかヘッズだからわからないですね。
あー指痛い。最初の方結構かっこつけてたんですけどもう指痛いし使える範囲の語彙全部なくした。ていうか流れが存在しないと流れが存在しないので辛いんですよ。わかりますか?
オタクオタクはオタクだけど、オタクオタクオタクはいないのだろうか? うん? ちょっとよくわかんないな。
氷山の一角にある感情が大きい人をオタクと呼ぶ。これは宙船って感じですね。宙船って感じではないですかね……
まぁわりかしわかる。でもオタクは氷山もデカい。そんな感じがする。
オタクが複雑クソデカ感情好きなのは、オタクがクソデカ複雑感情を推しとかなんとかに持ち合わせているからだと思うんですよ。やっぱり、何かある程度、そういう、なんていうの?もう何言おうとしたか忘れた。取り繕うこともできない。
あの読み上げ汚染度高いよ。汚染とかいっちゃいけないね。影響力?流れるように分散された思考が入ってくるからな~。それはすごい強いことだと思う。読み上げ上手くなりたいみたいなこと言ってた気がしたけど、別ベクトルで上手いと思うな。
ああそうだ、僕ってわりかしインプットにアウトプットが左右されがちな体質なんだった忘れてた。だからこうして、インプット直後のアウトプットが影響されていくんだなぁ。みつを。せんだ?せんだではない。せんだみつおって誰なのか知らないんですけど、せんだみつおゲームは知ってる。そういう人たちが世の中に闊歩している。
でもそれって結構すごいことだよね。せんだみつおゲームだけは知っている、元ネタは知らない。でもせんだみつお、という名前は残っている。これはもうほぼ偉人と言っても良い。
それ考えると、小学生の頃に流行った遊びはマジで全国どこ行ってもある程度共通してるけど、あれは誰が伝道してるんだろう。どこかに「小学生にこの遊びはやらそうずwwww」みたいなスレがあったとしか思えないぐらい継承されているよな。
ちなみにぼくは消しゴムを定規で飛ばすやつが結構すきでした。落ちたら負けのやつね。アレあついんだよな。
ウーーシュワッチ!のやつはじゃんけんじゃんって感じするよね ん? ウーシュワッチはじゃんけんだな。僕がいいたかったのは、こう、パンパン!って手叩いてバリアとかめはめ波とチャージを繰り返す遊びね。あれルール忘れたな。チャージしないとかめはめ波打てないんだっけ。じゃあじゃんけんではないか。戦略性高まってるわ。バリアがチャージに勝つわけでもないしね。あれはスキを見て当てるゲームだったのか。たしかに。そうかも。
これはもう15分経ったと言っても過言ではないな。なぜなら集中が切れたから。集中が切れたら15分。僕がそう決めた。
僕が起きたときが朝だし、寝るときが朝。朝はいつでもくるけど、夜がいつまでも続くとは限らない――そう彼女は微笑んで言った。
ぼく「それ同じこと言ってない?MECEじゃなくない?」
(この終わり方何?)