モンテーニュ
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著作
ルネサンス期のフランスを代表するヒューマニスト。1533~92年。西フランスのモンテーニュの城主ミシェル。1580年に『随想録』を発表。その後イタリアを旅行し詳細な旅日記を残す。帰国後、ボルドーの市長を務める。おりからフランスは激しい宗教内乱であるユグノー戦争の最中であったので、モンテーニュは新旧両派の仲裁に苦心した。 ペリゴール地方の、ボルドーに近いモンテーニュ城で生まれた。実家は商業を営み富裕であった。父方の曾祖父ラモン・エイケムはモンテーニュの地を買取り、貴族に成り上がった。父は政治に熱心でボルドーの市長を務めたことがある。母方はセファルディム(スペイン系ユダヤ人)の家系であった。 ミシェルは6歳になるまで家庭教師のもと専らラテン語を用いて育てられた。ラテン語は当時の学問に必須の知識であったとはいえ、このような教育法は特異であった。 トゥールーズで法学を学び、フランスの法官になった。1557年、ボルドーの高等法院(パルルマン)に務めていたときに、人文主義者エティエンヌ・ド・ラ・ボエシと親しくなった。エティエンヌは1563年に死去したため、モンテーニュは深い悲しみに沈んだ。1565年に結婚。6人の娘が生まれたが、そのうち成人したのは1人である。1568年、父の死によりモンテーニュ城を相続した。1570年、37歳で法官を辞任して故郷に戻り、やがて『エセー(随想録)』の執筆を始めた。 法官辞任後、カトリックのシャルル9世、アンリ3世から侍従(非常勤職)に任ぜられる一方、1577年にはプロテスタントのナヴァール公アンリ(アンリ4世)の侍従にも任ぜられた(アンリは即位前の1584年、1587年にモンテーニュの城館を訪れたことがある)。フランス宗教戦争(1562-1598年)の時代にあって、モンテーニュ自身はローマ・カトリックの立場であったが、プロテスタントにも人脈を持ち、穏健派として両派の融和に努めた。
主著『エセー』(随想録)Essaisを1580年に刊行した(初版、2巻本)。 1580年から1581年にかけてモンテーニュはフランス、ドイツ、オーストリア、スイスを経てイタリアに旅した。この際のさまざまなエピソードや都市ごとの宗教的な違いを詳細に記した原稿がモンテーニュの死後に見つかり、1774年に『旅日記Journal de voyage』 という題名で出版された。
1581年、イタリアに滞在中、ボルドーの市長に選出されたことを聞き、帰還して1585年まで(2期)務め、カトリックとプロテスタントの仲介に努めた。任期の終わり頃から、ボルドーではペストが流行し、モンテーニュもペストを避けて他所に逃れた(1586-1587年)。
モンテーニュは、アンリ4世即位後の1590年、顧問になるよう要請されたが、辞退した。1592年に死去するまで『エセー』の加筆と改訂を続けた。