メノンの指摘についてを読んでの雑感
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1.まずここでメノンが述べていることが、「「色に常に伴うもの」という定義が盲目の人に理解できないから、この「形の定義」はうまくいっていない」ということであるならば、その推論はあまり妥当ではないように感じられる。
というのも「ある一部の人々にその定義が理解できないこと」と「その定義がうまくいっているかどうか」はあまり関係ないと思われるからである。多分自分が全く知らない分野で使われていて、聞いても理解できないが、その分野に詳しい人の間ではうまくいってる定義は存在するだろう。
11.いやここで問題になっていることはもう少し複雑で、盲目の人は「形」自体は理解できているが、「色に常に伴うもの」という定義は理解できない。このように事柄Aは理解できているが、事柄Aの定義は理解できないという場合、その定義はうまくいっていないと言えるのではないか?
しかし、これに対しても反例が出せるのではないか。例えば「金」の定義は「原子番号79の元素」であるが、この定義が意味するところを理解できない人でも「金」は理解できるのではないか?
2.「「形」が視覚的なものに留まらないということを示唆」するだけであれば、おそらく定義のくだりは不要である。「視覚能力を持たない盲目の人でも(触覚などを通じて)「形」の概念は理解できる。したがって、「形」が視覚的なものに留まらない」で十分だと思われる。
3.例えば私が脳内で赤をイメージするとき、そこに形は伴っているのか。あるいは脳内でイメージする赤は、厳密には色ではないのか。
3-1 数学における定義にこういうイチャモンはつけられない
3-1-1数学における定義が、「うまくいかない」ということはあるのだろうか?
例えば「素数」の定義 = 「2 以上の自然数で、正の約数が 1 と自分自身のみであるもの」がうまくいかないという事態はイメージしづらい。おそらく、数学における定義は、完全に定義が先行していてそれに基づいて事柄・対象も定まってくる。したがって定義と事柄・対象の間にズレは生じえない
(ただ、定義自体が矛盾していて「うまくいかない」ということはあるかもしれない)
これに対して、上で出てきた「形」のようなものは、ソクラテスが「色に常に伴うもの」という定義を提起する以前から、私たちの中で漠然と了解されているものである。このような場合、提起された定義とそれが指示する事柄・対象の間にズレが生じる可能性がある。そしてそのズレがある程度大きいときその定義は「うまくいっていない」と感じられる
そのズレは具体的には次のように指摘される場合がある。ある「事柄A」についての定義を「定義a」とするとき、
「定義aによれば、xも「事柄A」であることになってしまうが、実際には、xは「事柄A」ではない。したがって定義aは妥当ではない」
あるいは、
「定義aによれば、xは「事柄A」ではないことになってしまうが、実際には、xは「事柄A」である。したがって定義aは妥当ではない」
つまり「反例」を挙げるというやり方であるが、前述のように数学における定義ではこのような「反例」は生じえないのではないか。とすると、定義には「反例」が生じえない類のものと生じうる類のもので分けられるか。
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なるほど。確かに、「ある人々にとって、「事柄A」は理解可能であるが、それについての「定義a」は必然的に理解できない」かつ「それにもかかわらずうまくいってる」ような「定義a」が出せればよりクリティカルな批判になりそうだが、適切な例が自分にはすぐに思いつかない(というのも必然的に理解できない「定義」の例がまず難しい気がする)。
ただ、もし前述の自分の主張が認められるならば、少なくとも「偶然的に理解できない」場合には、「ある一部の人々にその定義が理解できないこと」と「その定義がうまくいっているかどうか」は関係ないことになる。では、「必然的に理解できない」場合にはそうではないとする根拠はあるのだろうか。
なので上のページの結論部にある「出されている例は主張を補強しない」かはまだわからない
逆に、自分にしか(必然的に)理解できない「定義」というものをもし作れたとして、それが「うまくいく」ことは可能であるのか。「うまくいく」ということがどういうことか。