ムージル年譜
ムージルについての年譜。なお、ムージルは生涯に幾度も転居している。 以下、カール・コリーノ『ムージル伝記3』、ベルクハーン『ムジール』、プフォールマン『ローベルト・ムージル』などを参考に作成
1880年
11月6日午前5時、クラーゲンフルト市近郊ザンクト・ループレヒトに父アルフレートと母ヘルミーネの子として生まれる。
1895年
この頃、『テルレス』の原型となる事件に遭遇する(~1896年春まで)。 1900年
4月19日、『新ブリュン新聞』に「ヴァリエテ」掲載される(初めて実名で署名をした公刊作品である)。
1906年
10月末、『テルレス』刊行。
1908年
11月・12月、隔月誌『ヒュペーリオン』第六号に『魅せられた家』が掲載される。
1911年
5月末、『合一』および『テルレス』新版がミュンヘンのゲオルク・ミュラー出版社から刊行される。
1914年
8月20日、リンツにて国民軍に入隊。
1916年
4月14日、マックス・ブロートおよびフランツ・カフカを訪問。
1920年
5月1日、『メルケル』に「メロドラマ《黄道十二宮》の序幕」を発表。
1921年
3月、『新メルクーア』に「精神と経験――西洋の没落を免れた読者のためのコメント」(オスヴァルト・シュペングラーの『西洋の没落』に対する批判)を発表。 8月22日、ジビュレン出版社が戯曲『熱狂家たち』刊行。
1922年
春頃から、ハンガリーからの亡命者たち、とりわけ作家で映画批評家のバラージュ・ベーラや精神療法医ルカーチ・フーゴ博士と付き合う。ルカーチ・ジェルジュと知り合う。
1924年
1月5日、三幕からなる茶番劇『ヴィンツェンツとお偉方の女友達』がローヴォルト出版社から刊行される。
2月28日、短編集『三人の女』がローヴォルト出版社から刊行される。以後ローヴォルト出版社はムージルの作品すべての版権を握ることになる。
1925年
芸術家団体「グループ1925」に加わる。
1926年
5月、訪問客のアルフレート・デーブリーン、ムージルの長編小説の原稿に自分の名前を書き込む。デーブリーンは冗談のつもりであったが、ムージルは原稿の持ち主が自分でなくなったような気になり、その後何カ月も長編小説の続きが書けなくなる。
12月29日、リルケ死去。追悼会開催の是非をめぐって、ベルリンの「グループ1925」内部に激しい議論が巻き起こる。ブレヒトは反対したが、ムージルは賛成し、ムージルの意見が通る。
1927年
1月16日、ベルリン、ルネサンス劇場で催されたリルケ追悼会にて講演。
2月6日、ベルリンの「ラジオ講座」の連続放送番組「現代の名匠」に出演。『テルレス』、『熱狂家たち』、未刊の長編小説『特性のない男』からそれぞれ一部分を朗読(このとき『特性のない男』という表題が初めて公にされる)。
2月14日、『リルケ追悼講演』刊行。
1928年
4月8日、正式に『特性のない男』と名づけた長編小説を部分的に発表しはじめる。第八章にあたる「カカーニエン――断章」を『ターク』に発表。
1932年
9月半ば頃、ベルリン。経済状態が逼迫。美術史家クルト・グラーザーによる後援のもと、ムージル協会が設立される。同協会は銀行家クラウス・ピンクスとともに、およそ二万マルクを調達。しかし会員の大部分がユダヤ人であるため、同協会は1933年1月30日のヒトラーの政権掌握以降、散り散りに。
12月19日、ローヴォルト出版社から『特性のない男』第二巻刊行。
1933年
8月末から、ヘルマン・ブロッホに対して自分のエッセイを剽窃したと非難。ブロッホは誠実に対応し、ムージルの非難を退ける。 1934年
5月、ムージルの友人たち、「ムージル基金」設立を呼びかける。結果、約400シリングという下級公務員の月給程度の金額が、さしあたり一年間毎月支給されることに。 1935年
12月半ば、チューリヒのフマーニタス出版社から小品集『生前の遺稿』刊行。実売数、数百部。
1938年
3月13日、独墺合邦(アンシュルス)。ムージルの友人や知人のうち、多数のユダヤ人がオーストリアを去ったため、ムージル基金の経済基盤は崩壊。 10月10日、『特性のない男』がドイツ国内全域で「禁書に指定された」旨、ウィーンのベルマン=フィッシャー出版社管財人から書状により通知される。
1940年
第三帝国がムージルの全作品タイトルを「1941年版 有害にして望ましからざる著作リスト」に載せる。
1942年
4月15日午後1時、ジュネーブで脳卒中に襲われ死去。