ボエティウス
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生涯
4世紀にキリスト教に改宗した由緒あるローマ貴族アンキア一族の出身。父親の死後も名望家の庇護のもとで成人した。
青年の頃にアテナイに遊学したとも伝えられるボエティウスは、プラトンとアリストテレスの全著作をラテン語に訳そうとする。現存するのは『カテゴリー論』と『命題論』の翻訳のみであるが、ボエティウスは政治的意図にとどまらず、古代の学問をキリスト教神学へ適合させ、ギリシャ哲学をローマ人に伝える仲介者を辞任していた「最後のローマ人」であり「最初のスコラ哲学者」であった。
当時イタリアを支配していた東ゴート族テオドリック王朝において執政官、元老院議長、宰相などの要職についたが、ビザンティン帝国と通じて王への反逆に加担したという嫌疑でパヴィアに投獄され処刑された。
主著
『哲学の慰め』
『三位一体論』
『音楽教程』
ポリフュリオスの論理学書『イサゴーゲー』註解
思想
『デ・ヘブドマディブス』
存在の分有
存在と存在するものとはことなっている。というのも、存在そのものは、いまだ存在していないけれども、存在するものは、存在の形相を受容するときに存在し、存立するからである。(公理2)
存在するものは、なにか或るものを分有すること(participare)ができるけれども、存在そのものはなにものも分有することはできない。或るものは存在を分有することで「存在する」。そのようにして、或るもの(aliquid)が存在するとき、はじめてなにかを「分有する」ことが可能となる。(公理3)
「存在するものは、すべて、存在するために、それが存在であるものを分有するが、他方で、或るものであるためにべつのものを分有する」ことになる(公理6)
⇨ボエティウスは存在の分有(公理一にいう「存在の形相essendiforma」の分有)と、なにか或る形相の分有を考えている。
存在者と善
存在者はすべて「第一の善」「善そのもの」から流れでた(defluxit)ものである。第一の善であるものはまた単純なものであって、そのものにおいて、それが存在することと、それが善であることとはひとしい。そのような「存在そのもの」である「神」から流出することで、存在者はすべて善いものとなる。
ものの存在自体が、第一の存在、つまり善から流れでたものとして以外には存在しえないからこそ、ものの存在自体が善なのである。
⇨これによって善なる神による創造だけが、存在者の存在が善であることの根拠となる。
『哲学の慰め』
神が善そのものであり、第一の善であって、「いっさいの善のなかでも最高の善であり、他のあらゆる善を包含する善である」(第三巻第二章)
⇨ボエティウスはプラトン、新プラトン主義的な思想を、存在からの存在者への流出は神の自由意志に根拠を持つとしたようにキリスト教的な解釈を行っている。 このようなボエティウスの思想は中世キリスト教神学に大きな影響を及ぼした。
しかしそのようなキリスト教的信念にもかかわらず、獄中で書かれた『哲学の慰め』では、キリスト教の概念ではなく、哲学を女性として寓意化し、その女性との対話の中で人生の意味と幸福とを省察している。
それによれば幸福とは神およびその摂理への信頼においてのみ見出せるのであるが、その際の神の摂理は永遠の知として世界を統宰するため、時間のうちに生きる人間の行為を制約したり、その自由を損なうことはないとする。
『哲学の慰め』は活版印刷が導入されてからは各言語に翻訳され中世通してよく読まれ、ダンテやボッカチオにも影響を与えた。
時間論
「永遠は、無限の生命の、全体的で同時的な完全な所有である。それは時間的なものとの比較によって、よりあきらかとなる。」(『哲学の慰め』第五巻第六章)
『三位一体論』
神について「つねに在るsemperest」と言われる場合、それは、いわば、すべての過去において存在し、すべての現在において(どのようなしかたにおいてであれ)存在しており、すべての未来において存在するであろうというただひとつのことを意味する。哲学者たちによれば、このことは、天体やその他の不死の物体についても言われるが、神については、それはべつのしかたで言われるのである。神が「つねに在る」のは、「つねに」が、神においては現在の時間におけるそれであるからである。そして、「いま」である、私たちのものごとにおける現在と、神の現在とのあいだには大きな相違がある。すなわち、いわば流れている私たちの「いま」は、時間と恒久性(sempiternitas)をつくり、これに対して、永続し、動かず、立ちとどまる、神の「いま」は、永遠をつくるのである。(第4章)
音楽
『音楽教程』は自由7科の数学的な一学科として書かれた。
音楽を含めた数学的な学科の研究を怠ったものは哲学に精通することはできないという考えはプラトンの『国家』第七巻を踏襲している。
また音楽は理性によって研究される数学的学問であると同時に、人間の心にも影響を与えるため人間の習慣を改良することも破壊することもできると考えた。
ボエティウスは人間の魂と音楽の関係をプラトンの『ティマイオス』における、世界霊魂、人間の魂、音楽の調和(ハルモニア)との関連の中に見ている。
ボエティウスは音楽を『音楽教程』においては音楽を3つに種類分けしている。
①世界の音楽
世界の音楽は天において要素の結合あるいは四季の変化の中に観察されるようなものに認められる。
それぞれの天体の回転は異なっているが一定の秩序にかなっているのでこの天体の回転とnudulatioの一定の秩序が相違することはありえない。
たとえ我々の耳には聞こえないとしても天体の運行は響を生じている(⇨ピタゴラス学派の影響)
⇨このように世界の音楽では何事も乱されることなく、すべては驚くほど調和していると考えられている。
そしてこのような音楽の捉え方は、キリスト教的な創造に従った神との合一に向かう上昇の運動ではなく、ギリシャ的な、それ自身が生成消滅するところの全体の内部における循環的運動によって特徴づけられている。
②人間の音楽
人間の音楽は次のような3つの形において見出されるという。
魂と身体の結合 ー形のない生命力と身体の結合
魂の部分の結合 ー理性的なものと非理性的なものの結合
身体の要素の結合
③楽器または声による音楽
弦楽器、笛や水で作動する楽器、打楽器によって行われる、世界の音楽、人間の音楽を実際に人間の耳で聞きうるものとしての音楽。
「詩」の形で現れた音楽。
『哲学の慰め』においては『音楽教程』には見られなかった「神の音楽」について語られる。
④神の音楽
神の中に存在し、それによって神が世界の音楽を創造し維持するようなものと考えられる。
参考文献:
熊野 純彦 『西洋哲学史 古代から中世へ』 岩波新書
クラウス・リーゼンフーバー『中世思想史』平凡社ライブラリー
平田公子 『ボエティウスの音楽観』