ヘーゲルと禅
ヘーゲルを読んでると、前々から「何でこんなに禅ぽい文章が多いんだろう」と思っていたのであるが、西田幾多郎がヘーゲルに傾倒していたというのを確認して、「さもあり」とこの上なく腑に落ちた。問いへの解答ではないのだが。
哲学って語り方を開発していく側面があって、ヘーゲルって、平気で排中律、矛盾律を破るような書き方をするんだけど、おそらく歴史的に西洋でああいう言語の綴り方をしたのは、この人が初めてなんじゃないかと思う。ヘーゲルにつまずく人が多いのはここにも原因の一端があるだろう。
ヘーゲルがいて、初めて矛盾を矛盾のままに、もしくは一見矛盾に見えるものもそうではないものとして、かつそれを論理的に、語ることが可能になった。実際、言語というのは多様な現実に対して、あまりにも数が少なく、荒いため、ある対象が二つの性質を有していたり、相反する性質を同時に有しているというのは普通のことなんだけど、それを言語で表現しようとすると、途端に矛盾っぽくなってしまうだけなわけで。
ヘーゲルはそこをより現実に即した形で、言語においても語っているだけなんだよね。禅もそういう矛盾したような語り方は多いわけで。もちろんヘーゲル自身は禅を意識しているわけではないというのがこの話の面白い所で。