ヘッケルが日本文学に与えた影響
記事では言及されていないが、『死靈』には『ドグラ・マグラ』の胎児の夢と反対の方向に生命(存在)を考察している部分がある。 死につつある人にゾンデを差し込み、衰滅し分解しゆくものと対話するという試み。 探求者《樽のなかのヘルクレス》は「もはやわれならざるわれ」を経て、「或る単純機能」、「ひそかな溜息のつき手」をつきとめる。 君はそのフラスコのなかでついになしとげられた奇怪な伝達の意味を理解できるだろうか。ふむ、ちっちゃな、ちっちゃな応答器械。ちっちゃな、ちっちゃな、ちっちゃな応答単位。あっは、掌の上にのる小さな神! それは、いってみれば、系統発生の歴史を始発の根源へ向って遡りながら、しかも、未来へ向っても恐ろしい暗示のサインを投げこんでいるところのいわば自己持続と自己否定の重なった最初の原判断力をもった不思議な単子で、《存在の電話箱》の前に置かれながら最も単純なサインを回答してくるはずのそれを彼はこう名づけたのだぜ。いわく、《還元物質》。 あたりは、四たび、しーんと静かになってしまった。
文庫版Ⅱ、p129
ちなみに、鶴見俊輔は、『埴谷雄高』(面白い本)において、『死靈』の「不足」として、「科学を方法としてでなく、結果としてのみとらえて、作中人物の思想の部分に援用したことである」と指摘しているが(文庫版p185)、これは正当な指摘と思う。同時に、たとえば「死者の電話箱」の挿話に関しては、寓話としての性格が強いため、そもそも「科学」として提示された主題なのか(大真面目に科学として受取るのも少しナンセンスではないか)、また方法としてではないが、(「序」で述べているように)「極端化、曖昧化、神秘化」のための「技法」として用いているのであり、それがトンデモ科学であろうとレトリックとしての有用性もみるべきなのではないかとも考える。