フランシス・ベーコンの絵画について
書いているうちになんか美術エッセイみたいになってしまった。
美術における20世紀の巨匠の一人ともされるフランシス・ベーコン(画家)の小さな画集本(ルイジ・フィカッチ『ベーコン』)を読んでいるが──自分には難しすぎてほとんど書いていることも分からないのだが──そこにも書かれているように、彼の絵画は両義的かつ抽象的、そして得体の知れない表現であるため、描かれている対象の意味を見出すあらゆる試みは失敗に終わる。 逆に言えば、ベーコンが描こうとしているものは、普遍性をもつ暴力的または恐怖的な叫びのようなものである。
https://i.gyazo.com/24702b1f811f6eb143a19799fea6ff62.jpg
フランシス・ベーコン《トリプティック1944年》、1944年、File:Three Studies for Figures at the Base of a Crucifixion.jpg|Wikimedia Commons
作品は大部分が激しくデフォルメされ、歪められ、あるいは大きな口を開けて叫ぶ奇怪な人間像であり、人間存在の根本にある不安を描き出したものと言われている。
https://i.gyazo.com/7376c7eb208dee8c93b77b0639531de7.jpg
Three Studies for a Portrait of Henrietta Moraes, 1963|Wikimedia Commons
著者は繰り返しベーコンの絵画が「悲劇的」であると書いており、確かに「悲劇的存在感」のようなものが表現されているように見える。
個人的には、「感情の深層に堆積した恐怖のトラウマ的表現」という文言に深く共感する。 以下の絵画は、上部の平和的な青の色彩がかえって下部の歪められた椅子に座る人物と思しきものの不気味さを強調している。この絵画からもどういう意味内容が込められているのか、鑑賞者の判断を拒む表現となっている。
https://i.gyazo.com/be89595c18c87d10da6e302b4d388c31.jpg
《風景の中の人物》、1945年、File:Figure in a Landscape (1945).jpg|Wikimedia Commons
こちらでは、解体された人体の前景に顔面の上部が欠けた人物が歯を見せて叫んでいるように見える。こちらも明確な意味を読み取ることができず、著者は「存在の不条理を芸術表現の現実にしている」と書いている。 https://i.gyazo.com/4409b01c03da3e1e9ecb3f42b9330534.jpg
《絵画1946年》、1946年、File:Painting 1946.jpg|Wikimedia Commons
ベーコンの絵画は意味内容を絞ることがもはや不可能な次元に達しているが、それでも著者はベーコン自身の次の言葉から《絵画1946》の解釈を試みている。
「ヨーロッパの芸術には非常に多くの素晴らしい磔刑図があり、それらはあらゆる種類の感情や感覚を付着させることのできる理想的な骨格を形成している……それはとても不十分なものかもしれないが、同じくらい有用な方法で人間の感情と行動を象徴する主題が、私にはこれ以外に見つからなかった。このテーマは恐らく、非常に多くの人々がこれに取り組んできたという理由でのみ、考え得るあらゆる感情の層を描写するための理想的な骨格──これ以上の表現が私には思いつかないが──になったのだろう」 確かに上の絵画の手を広げられた人体は「磔刑」を思わせる。いや著者によると、これは畜殺された雄牛なのだという。 とにかく上部の欠けた人物の背後にあるモチーフが十字架にかけられたイエスのイメージを喚起する。
また無神論者であるベーコンにとって、磔刑は単に人間の苦痛を象徴するものであるらしい。そして磔刑を示唆するものは、ベーコンの詩情の基本的構成要素でもある。
事実、彼は《磔刑図》という作品や《磔刑図のための三習作》という作品を描いている。
https://i.gyazo.com/8f4efcd97dd3f25a51aa38e1965e1b26.jpg
《磔刑図》、1965年、File:Crucifixion 1965.jpg|Wikimedia Commons
また、著者はベーコンの絵画に描かれた人物について、「悲劇性」という言葉以外に「滑稽さ」という言葉も繰り返し使っている。 ベーコンは「彼の作品における2つの分かり難い定数的要素である恐怖と滑稽さを完璧なバランスに保つことに成功している」のだ。 しかし、既に以前の絵画に存在したこの滑稽さは、今や人間的存在の計り知れないほど深い悲惨さをきわめて過酷に告発すると同時に、情け深く包み隠すのに貢献している辛辣なあてこすりに転化している。 つまり、不自然にこわばり歪められた彼の絵画の中の人物は恐怖と滑稽さを有しているが、そこから鑑賞者は悲惨な人間存在のリアルを読み取るのである。
https://i.gyazo.com/b7a47495963e33624d55b77c4c6fc9a0.jpg
《トリプティック1972年8月》、1972年、File:Triptych - August 1972.jpg|Wikimedia Commons
あらすじとしては、スペイン王女の誕生日に様々な催しがなされるが、とりわけ醜い侏儒の道化師が滑稽に踊る様子を見て王女がお喜びになる。そして王女は侏儒に白い薔薇を渡し、それによって侏儒は王女が自分に恋をしていると勘違いする。侏儒は王女を森に連れて行って遊ぶために宮殿へ乗り込み、そこにある鏡で自分の姿に見て絶望し、やってきた王女の一群の前で自殺する、というもの。
ベーコンの絵画は、私たちが内在させているこの侏儒のような滑稽さをありのままの姿で露呈させ、人間の悲惨さを彼なりの恐怖の表現によって告発させているように思える。
このように、一個人の実存的不快感をトラウマティックに描き出しているように見ることもできそうだ。
冒頭にも書かれているように、ベーコンの絵画は非常に抽象的かつ多義的なために、複数の解釈の余地を残している。しかし、著者がはじめに書いているように、「フランシス・ベーコンほど存在のドラマをリアルに表現した者は、恐らく他にはいない」だろう。彼が20世紀を代表する巨匠と目される理由は十分すぎるほどあるのだ。