パノフスキー『〈象徴形式〉としての遠近法』読書メモ
#美術
エルヴィン・パノフスキー
本文より注のページ数の方が多い本。
難しい。
ヨーロッパにおける空間感覚の変遷、それを象徴するのが美術における遠近法
【古代ギリシャ・ローマ】
・人間の感覚?中心(手でつかむことができるもの、非連続性)
・立体芸術への関心(彫刻・建築)
・絵画→曲面遠近法(人間の眼に合わせた角度による遠近法)
【中世】
・宗教中心
・神の「微細な光?」に満たされた均質、等質な空間
・絵画→平面化、遠近法の解体
・退化したように感じるが、ここで一回等質化させたことが近代の平面遠近法につながる
【ルネサンス、近代】
・自然科学の方向へ?
・絵画→平面遠近法(数学的な距離の遠近法)
・空間を数字化、合理化、連続性
・人間の感覚や宗教を切り捨てた?
象徴(シンボル)形式とは
遠近法は、「精神的意味内容がそれによって具体的感性的記号に結び付けられ、この記号に内面的に同化されることになる」あの「象徴形式」の一つと呼ばれてもよい
→?
とりあえずヨーロッパの思想変遷とともに人間の「世界の把握」の仕方が変わり、それがそれぞれの時代の美術に象徴されているという感じか。
鑑賞者、主観、客観あーだこーだ。プラトン、アリストテレス哲学との関連性←ここらへんがうまく噛み砕けなかった。文章が難解。読むのが大変だった。
今気づいたが、パノフスキーの「象徴形式」とはエルンスト・カッシーラーの象徴形式の哲学に大きな影響を受けているようだ。カッシーラーも読むとさらに理解が深まると思われる。
2025/3/1 再読
再読により、以前読めていなかった遠近法の閉鎖性と拡張性のような部分を追記
ヨーロッパの美術によく持ち出される遠近法にまつわる本です。絵画における近代的遠近法の発明は突然起きたわけではなく、古代、中世、近代における長いプロセスがあった。遠近法は客観的、数学的、合理的と思われがちだが、同時にあるひとつの視点によって収斂される主観性も持ち合わせており、「主観的なものの客観化」という言葉が本書にも出てくる。しかしあるひとつの視点に収斂されているにも関わらずその視点には無限の彼方があるというのが近代的遠近法のおもしろいところですばい。こうしたものの捉え方や見方(パースペクティブ)は、さまざまな場所や時代によりさまざまあるもので、絵画の研究によってそれが象徴的に理解されるということだろうか。最後の方の文章が遠近法の閉鎖性と拡張性を表現していていいんだよな。書きぬきしておこう。
このように芸術的な対象性を特有な仕方で現象的なものの領域に移し入れることによって、遠近法的な見方は、宗教芸術に、そこにおいてこそ芸術作品が奇蹟を惹き起こすことになる呪術的なものの領域や、そこにおいてこそ芸術作品が奇蹟を産み出し予告することになる教義的-象徴的なものの領域を閉ざしてしまう。だが、遠近法は宗教芸術に、あるまったく新たなものとして幻想的なものの領域を開いてやるのであり、この領域においてこそ、超自然的な出来事がいわば観賞者自身の、一見したところ自然な視空間に押し入り、まさしくそうすることによって観賞者にその出来事の超自然性を本当の意味で「内的」に悟らしめることになるので、その奇蹟が観賞者の直接的な体験となるのだ。また、遠近法は宗教芸術にもっとも高度な意味での心理的なものの領域を開いてやるのであり、そこではもはや奇蹟は、その芸術作品のうちに描かれている人間の心のなかでのみ起こるのである。バロックの偉大な幻想画ーーこれは結局のところ、ラファエロの「システィナの聖母」やデューラーの「ヨハネ黙示録」、グリューネヴァルトのイーゼンハイム祭壇画、さらにお望みなら、すでにジオットの「パトモス島の聖ヨハネ」(サンタ・クローチェ聖堂のフレスコ壁画)によって準備されていたものであるだけではなく、レンブラントの後期の絵画もまた遠近法的な空間観なしには不可能であったろう。というのも、遠近的な空間観は、実体を現象に変えることによって、神的なものを単なる人間の意識内容に切り縮めるように見えるが、しかしその見返りに逆に、人間の意識を神的なものの容器にまで広げもするからである。
再読なのですが、以前読んだときより読めるようになった気がします。前は「難しい」と感じたが、「こういうこと言いたいのか」くらいまでは。