ニーチェ「人間は平等ではない。平等になるべきでもない」
(※この記事は書いたあとにアープラの人達と議論して考え方が変わったような気がするのでいずれ修正する)
現時点では理解できないが、いつか分かるかもしれないのでメモ。
この平等を説く者たちと、わたしは混同されとり違えられたくはない。なぜなら正義はわたしにはこう語るからだ。「人間は平等ではない」。
そしてまた、人間は平等になるべきでもないのだ。そう言わぬとすれば、わたしの超人への愛は一体どうなる。 人間は幾千の大橋小橋を押し渡って、未来へと突き進まねばならぬ。そしてもっと多くの戦いと不平等が、人間のあいだに起こらねばならない。わたしの大いなる愛こそが、こう語らせるのだ。
人間はたがいに敵対しつつ、像や幻影を発明していかねばならない。その像や幻影をたずさえて、よりはげしく対立しあい、最高の戦いをたたかわねばならない。
善悪、貧富、貴賤、そして他のあらゆる価値の名称、これは武器でなくてはならない。そして生がたえずみずからを克服して行かねばならないことを示す、その旗印でなくてはならない。
> 生そのものが、柱を立て階段を作り、高みにむかっておのれを打ち建てていこうとする。はるか遠くに至福の美を見ようとする。──そのためにこそ生は高みを必要とするのだ。
そして高みを必要とするがゆえに、生は階段を、そして階段とそれを昇っていく者の相克を必要とする。生は昇ろうとし、昇ることによってみずからを克服しようとする。
(中略)
美のなかにも闘争と不平等があり、力と優越をもとめる戦いがあるということ、彼はこのことを、ここで、これ以上なく明瞭な比喩としてわれわれに教えてくれている。(中略)
わが友よ。われわれもまた、このように悠然と、みごとに、敵対しよう。われらも神々しく対抗して向上しようではないか。
ニーチェ著、佐々木中訳『ツァラトゥストラかく語りき』「毒ぐもについて」(河出文庫) この節で登場する「毒ぐも」は平等を説く者たちのこと。 毒ぐもの魂の中にあるのは復讐心であり、その毒は復讐心を注ぎ込み、人々の魂を踊り狂わせる。 そしてツァラトゥストラの願いは、「 人間が復讐心から解放されること。これがわたしにとって、最高の希望への橋であり、ながい風雨のあとの虹だからだ。」だという。
また、毒ぐもたちは「平等への意志」という徳の名を、彼ら力の持てない者同士で誓い合った。
「そして『平等への意志』──今から、これが徳の名となるべきだ。力を持つすべての者に逆らって、われわれは叫ぼうではないか!」。
諸君、平等を説く者たちよ。力を持てぬ暴君の狂気が、君たちのなかから叫んでいる。秘められた暴君の情欲が、徳という言葉にくるまれている。
ツァラトゥストラは、毒ぐもたちが持てる者への復讐心から平等を説きはじめたと主張している。そして毒ぐもたちはただ持てる者の足を引っ張ろうとしている、それはただ人を傷つけようとする意図であり、害しかないとも書いている。
彼らの悲嘆の声すべてから、復讐のひびきがする。彼らの賞賛すべてには、人を傷つけようとする意図がある。ひとを裁く者であるということが、彼らには至上の幸福に思える。
だが、わが友よ。わたしは諸君に忠告する。ひとを罰したいという衝動がつよい者は、誰であっても信用するな。
「だが、〜」の部分はニーチェの有名な名言。
ここから上記引用で、ツァラトゥストラは「人は平等であるべきだ」というような道徳の価値をひっくり返し、闘争と不平等を肯定し、そのために善悪、貧富、貴賤といったものが必要だとまで書いている。その先の生の高みに超人へと至る道があるとも考えている。
個人的に思うことは、ニーチェ自身が持てる者であったからなのか、持たざる者への憐れみがない。
もしくは、ニーチェは持たざる者も努力の末に必ず持てる者になることができると考えていたのかもしれないが、現時点では理解できそうにない。