ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』をリアルタイムで読む
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概要
主催者:5番地
書記:ばる
課題図書:ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』 第1章「〈セックス/ジェンダー/欲望〉の主体」の1節(19頁)から6節(73頁)まで
期日:2021年 2月11日〜2月16日
場所:性多様性サロンにて行われた
記録
2/11 ~第1章第1節を読む~
5番地.iconうしやるか。哲学カフェとかでも良かった気がするな。ボイチャと併用して。とりあえず20分ぐらいでようわからんとこバーっといけるところまで上げる。
19頁から20頁
「これまでのフェミニズム」と「フェミニズムの言説の内部」は同じなのか。5番地.icon
・「女という主体そのものがもはや」p20
いまさら?5番地.icon
・政治的な、言語的な「表象」領域p20
意味不明5番地.icon
Yめっちゃ読みたいけど、私は手に入れられなかった。すみません。テキストをロムルスしてます。
・「言説で組み立てたもの、その結果にすぎない」p20
なぜ「言説」だけにかぎられているのか。5番地.icon
・そのとたんに「見え」なくなるp21
なぜ「見え」なくなることはバトラーには見えているのか。5番地.icon
Y男女とかそれ以外なのかとかもグラデーションみたいな感じかな?そもそもナンセンスなのか?
5番地.icon第一節の段階ではまだそういった主張は出てきていません。とりあえず、「女とはこういうものだ」といった「何であるか」ーーたしかラテン語の「本質・何性(quiditas)」という語のquiが英語のwhatに相当するーーにまつわる関心から離れるべきだ、と言っている感じです。
・「法の手前に存在する主体」は(中略)言説による形成物p21また「言説」か。「言説」にかぎらなければならない理由でもあるのか?5番地.icon
Yモーセの十戒みたいな言説ではなく、各々考えろということ?何者からも与えられるものではないということか?
5番地.iconバトラーによる「法」という語は、おそらくは一群の言説といったものであり、そういった者の前に「女という主体」があるという考えは間違ってるし問題が多い、という感じです。また、「形成物」とあるように、「何物からも与えられるものではない」ということではありません。それはいわゆる「本質主義」的な考えでしょう。与えられるまでもなく「女である」ということが定まっているなら。
p22。フーコーを引き合いに出しただけで「主体」に関してまだ分析やなんやは始まらない。5番地.icon
・家父長制という概念への批判の話p22
ここでこそ参照文献を指し示せや。5番地.icon
・「女に共通の隷属的経験」うんぬんp23
ラディカルフェミニズム批判かな。名前を出せバトラー。5番地.icon
・普遍的な家父長制があるという主張がもはやかつてのような信憑性をもたなくなってきたp23
どうなんだろう。いまでもそういう前提の「言説」は多い気はするが、それはかつてほどではないということか。5番地.icon
・「主体が言説を通じて機能するときの」p24
意味不明。5番地.icon
Y主体がディスクールを通じて機能する?
5番地.icon原文では「言説」がエノンセなのかディスクールなのかわかりませんが、おそらくディスクールでしょうね。しかしだからといって、「主体がディスクールを通じて機能する」とはどういった事態を指しているのかよくわからないことに変わりありません。
・p24 バトラーは「戦略」をとらないのか、これまでとは違う仕方でとるのか。5番地.icon
・p25 結局これだ。どうやって「権力の自己正当化」を「系譜的に批判的に」たどることができるのか。5番地.icon
・批判の出発点はマルクスが言う歴史的現在
へー、としかならない。5番地.icon
・p25 なぜ異議が唱えられてはダメなのか、いまいちわからない。5番地.icon
・「女」という主体がどこにも前提されない場合にかぎり、「表象/代表」はフェミニズムにとって有意義なものとなるp26
よくわからん。フェミニズムに関しては「表象/代表」は働かないなら、なにを「フェミニズム」と呼ぶのか。バトラーによる「表象/代表」にまつわる批判は、「女という主体」にまつわるそれに限定されているように思うが、その限定があるならば、その限定はいかにしてなされているのか。5番地.icon
以上、とりあえず第1節の通読と報告が済み。
Y過去の生活の守る守られる、命を危険にさらすか否かに源泉が潜んでる?フェミニズムは本来であれば、人類みなもっていて平等で言説によるものでもないから?読んでみたいな
5番地.icon大急ぎでやって約40分。1時間では足りない。わからないポイント検討に関してはボイスチャットの利用が望ましいだろう。参加者が多数の場合をまったく考慮していなかった。5人でもかなり大変な感じになりそう。
5番地.icon 第一節に関して。フワフワフワ〜っと「これまでのフェミニズム」における「法の手前の主体/女」という考えに批判的な文章を書いているが、論証といった類いのものでは未だ無い。
5番地.iconバトラーは「女という主体」を前提にするであろう「戦略」と、それを前提にしないんだろう自分の「戦略」とが、同時期に存在し、各々のやり方で「フェミニズム」のための運動をしていくのを良しとしているのか、いないのか。自分の「戦略」のほうを採用すべきだと主張しているのか、後に主張するのか。
あるいは、数多の問題点を指摘しているが、前者のアプローチも良しとしているのか。現状はそうではない感じ。
5番地.icon 第一節におけるバトラーの問題点は、「女であるとはどういうことか」に関して、そういった「前提」を取らないのを良しとしてしまった、まさにその点にあるとしたら、どうだろう。
子から離されて育てられる牛やなんやの動物の「雌」の処遇に関する非難は、「フェミニズム運動」として、「アニマルフェミニズム」として、含まれるのだろうか。「フェミニズム」に含まれるのだろうか。「フェミニズム」と「アニマルエシクス」ないしは「アニマルフェミニズム」とを分かつのは、一方が「人間」の「女」にまつわる活動であるからであり、他方が「動物」の「雌」にまつわる活動であるからだろうか。どうなんだろう。
バトラーはどのように、「法の手前の主体/女」という前提をとらず、「女」に関する「系譜的な」批判をもとに、何を「フェミニズム」として主張していくのか。あるいは「フェミニズム」とは異なるイズムへの離反を為すのだろうか。
ばる.icon「法の手前の主体/女」というのは、例えば産まれてから戸籍に「女」という判子が押される以前の人間のことを言ってるのだろうか。
Yただ女という意識を持っただけの女?
5番地.iconそうではないですね。
「フェミニズムの主体は、解放を促すはずの、まさにその政治システムによって、言説の面から構築されていることになる」(20頁)
「女に共通の隷属的経験」(23頁)
5番地.iconなどから、赤子よりさらに年月を重ねた「女」に関しても、「法の手前の主体」としての「女」という考えは適用されます。このあたりでバトラーが主張しているのは、いくらかの個体が共通してもつとされる「女」というアイデンティティ、「本質的なもの」、フェミニズムの活動の揺るぎない地盤としてそういったものを持ちだすのは怪しい、ということでしょう。
5番地.iconバトラーによれば
「主体」は「言説の形成物」であり、しかしその事実は隠されて、なぜ隠されるかと言えば、法の規制的な支配を正当化するものとして引き合いに出すためだ、とも言われます(21頁)。
5番地.iconこのあたりは、女性用トイレをトランスジェンダーの人らが使ってよいかダメかみたいなんにおける話と合わせて思うと、イメージは掴みやすい感じはしますね。合ってるかは別として。
ま英語もありますね。
ま一章一節の最後に「女性というカテゴリーのフェミニズム的系譜学」とか言ってるので、フーコー的なアプローチで女性の主体化=従属化の系譜をたどろうということなんでしょうね。
2/12 ~第1章第2節を読む~
5番地.icon『トラブル』第1章2節やってくぞい。
・p27ジェンダーが……文化的な意味ならば
文化的な意味?5番地.icon
・p27 ジェンダーは文化の構築物だという理解を助長する
前節の政治や言語と今回の文化とに違いはあるのか?5番地.icon
・p28ジェンダーは自由に浮遊する人工物
セックスから、ということだろうが、身体の捉え方が狭い可能性は?5番地.icon
・p28p29 セックスと呼ばれるこの構築物、社会的に構築されたもの
文化、言語、社会、政治(権力)と、構築には色んなもんが関わっているらしいが、とりあえず「自然」と対立するものなんだろう。5番地.icon
・p29 セックスはつねにすでにジェンダー
「つねにすでに」はアプリオリを示す副詞句だが、そういう意味で使ってるっぽい感じではない。5番地.icon
・p29 セックスそのものがジェンダー化されたカテゴリ
ジェンダー化?5番地.icon
・p29 生得のセックス(法的概念)
ばるさんが以前に書いた疑問と関わる?5番地.icon
・p29 「前-言説的なもの」
セックスも「文化の構築物」「人工物」とすることで、手つかずの「自然的なもの」ではないとすることで、変化を与える余地を作りだしてるのかな?
なんだか脱構築っぽい雰囲気はあるが、ジェンダーがたくさんありうるとして、身体は「2元体」じゃあないのか?
「前-言説的な領域」というのはフェミニズムにとどまらない話だな。2節目みじか!5番地.icon
Y男女とかそれ以外なのかとかもグラデーションみたいな感じかな?そもそもナンセンスなのか?
(※yutaさんのこの昨日のコメントに対して5番地さんがメンション)
5番地.icon第2節では「自然」としてのセックスに「文化」としてのジェンダーがセットになっている理解に関して批判されている。
・「セックス」は「文化的構築物」である
・「ジェンダー」は「セックス」の鏡ではない。断絶がある
など(メンションすみません)
p29 ジェンダーは、それによってセックスそのものが確立されていく生産装置
セックス生産装置? となるとジェンダーは言説なのか、言説という文化的なものによる構築物ではなく?
5番地.icon第2節
ここでもまた、なぜ「セックス」は「文化的構築物」なのか、といったことをきっちり論じていない。p28「おそらく」というように、論証は抜きに自分の立場を示すにとどまる。
p28における「〜なのか」という問いの連発は、読者の地盤をぐらつかせる効果を狙っているのか?
今のところ『トラブル』は、アジテーションの本である、みたいな感じがする。
p28 ジェンダー化された「主体」は、p29の「(セックス?)生産装置」と合わせるなら、幼児に対する「文化の影響」みたいなんに繋がるのかな。フロイトとかのくだりを読むのに役立つ指針になるかな。
p29 ジェンダーは言説/文化の手段でもあり
いやぁ、わけがわからない笑5番地.icon
この場合は、「セックス(自然)と対置されるジェンダー(文化)という概念・言葉」みたいな感じかな?5番地.icon
p29ジェンダーと呼ばれる文化構築された装置が行う結果、としての、セックスを前言説的なものとして生産するという事態
さっきは「言説/文化の手段」としてジェンダーを語っていたが、ここでは、「〜装置がもたらす結果」みたいな感じになっていて、「手段」っぽいニュアンスではない。5番地.icon
バトラーはどういう状況を意識してこれを書いてるんだろう。「可愛い女の子ね」みたいな、子どもに話しかけるさいの言葉遣いか。5番地.icon
p27の「亀裂が走ってしまう」とp28の「〜に潜むこの根本的な亀裂」のあたりは、もとから亀裂あったんかお前が入れたんかどないやねんっていう。5番地.icon
p27 「生物学は宿命だ」という公式を論破するためにセックスとジェンダーの区別は持ちだされた
公式っていう書き方も気になるが、こういうときこそ引用したりすべきじゃあないのか。5番地.icon
p28 「セックスの2元体が可変的な社会構築物であることを暴く系譜学はあるのか」
系譜学より遺伝子操作とかのほうに期待するのもありだと思うが、そういう話にならないのはなんでなのか。5番地.icon
5番地.icon 今回も「文化・社会・言説・政治」などなどのバトラーによる使い分けの意味がよくわからなかったが、おおよそ「自然」に対置されているらしい。しかし、それだけなのか、他の語と微妙な対応がなされていたりするだろうか。ちょっと気ぃつけたい。
・『トラブル』では筋力の話などは出てくるか?
・「男女」の身体的な差異はどのように処理されるのか?
・「文化的構築物」と言うが、どのように「構築」されるのかを論じるのか?
・すべて「文化」であり、「自然」は作り物、在ると思われているだけのもの、でしかないのか否か?
・「文化」と「自然」の2軸で話が進んでいきそうだが、「文化」はどこから来たのか? 「自然的なもの」は「文化」によって構築されたもんだとして、「文化」はどっからどうやって出てきたのか? 「文化」こそが「所与」だ、みたいなんじゃあなかろうし。
ま その本あまりよく知らないのですが、なんとなく見当で。ディスコースの言説は、フーコー由来でしょうね。フーコーが権力を考える際に、従来のように統治者が及ぼす力とイデオロギーみたいな画一的な教説みたいなものとしてのみ考えるのではなくて、一見、リアルポリティクスと直接関係のないような市民社会のさまざまな制度も権力として機能していて、そのとき権力はイデオロギーというより言説で、つまり言語の形を取りつつ分散的で動的なものとして記述されていたかと思います。そういうフーコーの言説論を踏まえつつ、それをセックスとジェンダーの関係に持ち込んで、文化的なジェンダーとは別に客観的なものとして扱われがちなセックスそのものの言説としての側面に光を与えて、実はセックスの言説そのものがわれわれのジェンダーにおよぼしている影響を明るみに出す、とかそういう議論なのでしょうか。
2/13 ~第1章第3節を読む~
5番地.iconキャー遅刻遅刻!『トラブル』第3節入ります。まろあさんにはあらためてレスします。
・p30 「ジェンダーを「構築」している適切な「文化」こそが、そのような法ーー一連の法ーーだと考えるなら
「法」すなわち「法律」ではない、と。5番地.icon
・p30 ジェンダーが「文化による構築物」であるならば、生物学ではなく文化が宿命になりうる、みたいな感じ。
このあたりをバトラーはどう扱うのか。5番地.icon
・ボーヴォワール登場p31
・ボーヴォワールが言うように「身体は状況である」ならば(中略)したがってセックスは言説以前の解剖学的な事実性だと言うことはできない。
意味不明。注があるみたいだからそれを見るしかない?5番地.icon
・p32「ザ・ボディ」と「ボディーズ」はそれ自体が構築されたもの。
ほへー。5番地.icon
p32、なんやようわからんすぎへんか笑5番地.icon
・p33、イリガライ登場。たぶん前の注でも出てたんだと思うがって注をすっかり忘れてたな。5番地.icon
・p34 実体の形而上学とは何か。
これに関してはやっぱ「何であるか」という問いはアリなのかな。5番地.icon
・ジェンダーを「属性」とすることへの批判。
話がなんとなくわかるぶん気をつけなきゃな。5番地.icon
・p35 イリガライにおける「男と女」にまつわる弁証法そのものへの批判のなかでは、「言説」という概念も不適切だ。だろうなぁ。『一つではない女の性』だかなんだかでもそんなこと書いてた感じ。5番地.icon
・p35 色んな立場の紹介終わり。
5番地.iconこっからがバトラーの、強いて言うなら「主張」かな。
・p35 ボーヴォワールの話が続く。
・p36 ボーヴォワールの身体性の理論は、自由と身体というデカルト的な二分法を無批判に反復しているから明らかに限界がある。
限界があるとかないとか言う意味がようわからん。5番地.icon
・身体が女性的なものに結びつけられてきたことは、哲学とフェミニズムの資料によって十分に裏づけられる。
どうなんかなぁ。孫引きでろくに読んでないなんてのもありそうだけども。5番地.icon
Y哲学とフェミニズムの資料なんて怪しい書き方ですね
kluftrose.icon同じくざっくり感
5番地.icon注があるんで、多分そういうのを扱った書籍・論文があるんだろうなって感じです。ありました。
・p37 イリガライの場合は、しるしづける者もしるしづけられる者も、男中心の意味づけの様式に包含されたもの
5番地.icon第3節話が進んでなくない?笑イリガライとボーヴォワールの話ばっかだった。次節に持ち越しかなぁ。
kluftrose.iconうむー元となる批評体系を知識として学んでいないので、そのまま飲み込んでしまう感じがありますね私は。というよりたぶん読めていない。
5番地.iconローゼさんは「ここどゆこと?」みたいなんありましたか。私はけっこうありましたが。
kluftrose.iconp.32の「可変性を阻んでいる部分はどこなのかを知れば」L10というあたりがちょと気になりました。ああ電話が
5番地.iconとりあえずは、バトラーはボーヴォワールについてこう思ってるんだな、みたく抑制したうえで保持する感じでいいんじゃないでしょうか。可変性か。ちょっと見てみます。どう気になったのかが気になりますが、電話ならしゃあないですね。
5番地.iconp30ジェンダーが構築物であるということは一種の社会決定論で、「行為性」とか変容の可能性は、そこではあらかじめ封じられているのかのくだりを受けての「可変性を阻んでいる部分はどこなのかを知れば」ではあるんでしょう。
5番地.iconしかし続くp32の文、「ジェンダーを言説の面から考察するときの分析の範囲が」は、繋がりがわかりにくいですね。
5番地.icon「可変性を阻んでいる部分はどこなのかを知れば」p32みたいなんは、同じp32における「ある種の人間主義」からの考えだ、と読むべきなんだろうな。むしろ、7行目の「問題の立て方」からもたらされてしまう考え、って感じか。この「問題の立て方」が分析になんらかの限定をもうけたりする。バトラーはそういうのとは違うことをやろうとしてるんだろうなってのはある。
ばる.iconとりあえず読んでるとボーヴォワールも読んでみたいと思いましたね。
5番地.icon言語の制約の話からイリガライに繋げるんはわからんでもないが、とりあえず、バトラーの考えはボーヴォワールとも違うんだよ、ってのはわかった。
第3節でも初っ端から「〜なのか」の連発。これまでのフェミニズムに対する問いとしての「〜なのか」連発。
p37の「プラトンから始まり、デカルト・フッサール・サルトル」みたいな感じのんが、「精神は身体を従属させるだけでなく、ときとして身体からまったく逃げおおせるという幻想をもつことすらある」みたいなんは、たぶんデリダの影響もあるんじゃないかなぁとか思う。
ま その本あまりよく知らないのですが、なんとなく見当で。ディスコースの言説は、フーコー由来でしょうね。フーコーが権力を考える際に、従来のように統治者が及ぼす力とイデオロギーみたいな画一的な教説みたいなものとしてのみ考えるのではなくて、一見、リアルポリティクスと直接関係のないような市民社会のさまざまな制度も権力として機能していて、そのとき権力はイデオロギーというより言説で、つまり言語の形を取りつつ分散的で動的なものとして記述されていたかと思います。そういうフーコーの言説論を踏まえつつ、それをセックスとジェンダーの関係に持ち込んで、文化的なジェンダーとは別に客観的なものとして扱われがちなセックスそのものの言説としての側面に光を与えて、実はセックスの言説そのものがわれわれのジェンダーにおよぼしている影響を明るみに出す、とかそういう議論なのでしょうか。
(※昨日のまろあさんのコメント対する5番地さんの返信)
5番地.icon言説うんぬん系譜学うんぬんに関してはフーコーとニーチェ由来でしょうね。セックスとジェンダーに関して言えば、バトラーはセックスも「構築されたもの」とします。「セックスとジェンダー」という区別を揺るがそうとしているーー少なくともバトラーの文章は、そうなってしかるべきって示唆してる感じです。
kluftrose.iconたぶん細かいところで引っかかっていただけですね。p.32左から4行目「言語によってつくられるもののなかに、制約はあらかじめ組み込まれているのである」を読むと、「今後の分析によってどんな文化の可能性が起動しうるか、しえないかを知ることができる」のかよくわからなくなってきてます。しえないのかなあとか。
5番地.icon言うてフッサールは少なくとも『論研』の時期は「没自我的な意識」を前提にしてたはずやが、バトラーはどの時期のことを言うとるんかな。デリダ『声と現象』を読んだだけやったりしてな。
kluftrose.iconたぶん細か文章のなかで「動き」そうなところに目がいく癖があります。木を見て森を見ず状態というか
5番地.iconいや実際わかりにくいですよ。少なくとも、イリガライをもちだして男と女とにまつわる「弁証法」や、「男根ロゴス中心主義)」とか、ジェンダーについて書いたり考えたりするさいに関わってくる言語というものへの関心は、自由なのかどうかという問題の立て方からは出てこない、とも言えそうではありますね。イリガライをもちだしてそれを言うために、ボーヴォワールを踏み台にした感あります。
p32「問題の立て方こそ、のちに示すように」
ここはメモポイント。のちとはどこなのか。5番地.icon
ま フーコーがたしか、「精神は肉体の牢獄だ」と言っていました。プラトンの定式をひっくり返していて、権力は、統治可能なもののとして主体を生み出しているという文脈で。そういう流れで哲学史を読み返すと、精神そのものの被支配的な側面にうといよね、っていうくらいのツッコミかなと。
5番地.iconそういうツッコミでしょうね。ただ、哲学史を読み直すというよりは、"Woman as Body"という著作に乗っかったツッコミのようです。著作ってか論文か。もっともっとわからないポイントを細かくしないと、ハードルが高いまんまなのかもしれないなぁ。
ま 「ときとして〔…〕という幻想を」という話で、つねにそうだとは言ってないんで、軽いジャブなのでしょうね。
5番地.icon問題はそのジャブが当たっているのかどうか、です。「フッサールはフレーゲからの影響を〜」みたいな、一時期わりと流行った考えも異見が出てたり、レヴィナスーー『第二の性』で批判されてるーーはデリダからの批判で〜みたいなんもそんな感じですし、とりあえず「ふーん」って感じで流しすしかないです笑
kluftrose.icon「第二の性」とイリガライの著作は気になります。まだバトラー自身の本論には行っていない感じですね。踏まえるべきものを置いて行っているような。
ま @5番地 さん、まあどの時点の研究史に触れるかによって違いも出てきますね。こういう本を読むとき、私は、デカルトやフッサール本人がどう書いてるかは脇に置いて(置かなくてもいいんですが)、この本が書かれたときに(多くの人が抱いていると)想定されているデカルト観やフッサール観みたいなものの話なのだろうと考えるようにしています。
5番地.iconそうするしかないでしょうね。バトラーはこう思ってんのね、と、流して進むしか。テクストと「現実」以外のもん(〜からの影響うんぬんといういかにも専門家的な、噂)を頼りにすると、やっぱり危ない。バトラーによるボーヴォワール読解に関する文章が理解できない、みたいなんは以外と出なかったな。「サロンの話の流れ」のためかな。そうした自粛を破棄するための「わからないポイント垂れ流し〜〜炎上するツイッター風味で〜〜」という狙いもあるので、一筆書きよろしく勢いのままパーっとやっていって欲しいなぁ。くま子さんはなにを書いてるんだろ。推敲とかそんなんせず垂れ流したらいいのに。しかしここまで来ると、あえてのアンドレア・ドウォーキン読書会、批判されがちなラディフェミについてもっと知ろう、みたいなんもありだな。ドウォーキンよりはマッキノンのほうが良さげやが。
kluftrose.iconあれですね、文章読むのが私遅い。
5番地.iconとりあえず、イリガライの「だからこそひとつではないセックスは、覇権的な西洋の表象作用や、主体概念を構築している実体の形而上学を批判するてきの、出発点となりうる」p34
あたりからは、イリガライの考え、ジェンダーやセックスを語るさいに不可避なものとしての言語というものへの関心を、バトラーは持っている感じはする。
しかしそうなると、バトラーによるこの著述は、「男根ロゴス中心主義」の一つの現れなのか。そうした現れの一つとしてバトラーはボーヴォワールの著述を挙げていたが、バトラーの著述はどうなのか。
そういった話も後に出てくるのかな。少なくともイリガライに乗っかることは無いだろう。
くま子.icon追いつきました。自分にとっては難しい本なのでこういう企画はありがたいです。五番地さん助かります。企画に合わせて読んでいくため、以下個人メモ。自分は知識不足と頭の悪さが相まって書かれていることの半分くらいは分からないため、できる限りバトラーの主張と問題提起と思われる部分を自分用に書き抜きできればと思います。
[第一章、一]
・「主体」の問題は特にフェミニズムの政治にとって極めて重要なもの。なぜなら「法的主体」というのはひとたび政治の法構造が確立されれば、そのとたんに「見え」なくなる排除の実践によってつねに生み出されるものであるからだ。20頁
・フェミニズムの主体としての女の問題を考えていくうちに法の「まえ」に存在する主体ーー法によって表象されるのを待っているような主体ーーなどないかもしれないという可能性が出てきた。20頁
・すべての女を表象/代表しうると主張する(現在の?)フェミニズムでさえ、女に共通の隷属的経験をさせるとみなしている支配構造の、まさにそのカテゴリー好きの架空の普遍性に向かって、フェミニズム自身がまっしぐらに突き進んでしまうことになる。23頁
→わたしが示唆したいのはフェミニズムの主体の前提をなす普遍性や統一性は、主体が言説を通じて機能するときの表象上の言説の制約によって、結果的には空洞化されてしまうということだ。24頁(バトラーの主張)
→事実フェミニズムの内部に起こっている分裂や、フェミニズムが表象していると主張しているまさにその「女たち」からフェミニズムに対して皮肉な反発が起こっている事は、アイデンティティーの政治に必然的な限界があることを示すものである。24頁
→現在の権力の磁場を構築しているのは、まさに言語や政治の法構想だ。よって、この権力の自分の外側にどのような立場もありえず、ただできる事は、権力が自らの正当性をどのようにやってきたのかを、系譜的に批判的に辿ることだけである。25頁(本書の趣旨?)
[第一章、ニ]
・セックスとジェンダーを区別しようとすると、とたんにフェミニズムの主体には亀裂が走ってしまう。27頁
・私たちはしばしば、セックスは不変のものでありジェンダーはセックスの文化的解釈であると定義しがちだが、セックスの自然な事実のように見えているものは、実はそれとは別の政治的、社会的な利害に寄与するために、様々な科学的言説によって言説上、作り上げられたものに過ぎないのではないか。28頁
→ジェンダーはそれ(法的概念による生得のセックス?)によってセックスそのものが確立されていく生産装置のことである。
[第一章、三]
・ボーヴォワールとイリガライの議論の検討
・ボーヴォワールの分析の特徴である身体性の理論は自由と身体と言うデカルト的な二分法無批判に反復しているためにその理論には明らかに限界がある。わたし(バトラー)自身は先ほど逆のことを言おうとしてくたのだが、ボーヴォワールは精神と身体の統合を提起している時ですらその二分法を無批判に保持している。それはボーヴォワールが過小評価している男根ロゴス中心主義の表れと読むことができる。
・ひとつでないセックスは覇権的な西洋の表象作用や主体概念を構築している実体の形而上学を悲観するときの出発点となりえるのである。34頁
・ジェンダーは文脈によって異なる変化する現象なので実体的な存在を意味するものではなくある特定の文化や歴史の中の種々の関係が収束する相対的な点に過ぎないものである。34頁
→イリガライなら女という「セックス」は言語上の不在の点であり、その実体を文法的に明示することは不可能なものであり、ゆえにそのような実体は男中心の言説が持続的で基盤主義的な幻想であるということをあばくものだと主張するだろう。34頁
くま子.icon@5番地 自分もよくわかっていないんですけど、たぶんバトラーの言う男根ロゴス中心主義を保持しているとみなされる場合、それはデカルト的な二分法ーー西洋の伝統的な、魂(意識、精神)と身体の存在論的な区別ーーが無意識にでもなされているときなのではないかと思います(37頁)。たしかにバトラーは言語に関心は強そうですよね。第一章は問題提起になるのかな?でも結構面白いです。
kluftrose.iconとりあえず発言待ちはしないでガンガンやっていくスタイル推奨ですね。(来客で日程中脱退すると思われますが、Scrapboxに逐次メモをやってみようかなあと思います。まとめる前の引っかかりみたいなものを)出来たらここにリンク貼りにきます。
2/14 ~第1章第4節を読む~
5番地.icon『トラブル』第4節
・p39 バトラーによれば、
ボーヴォワールの考え「男女という非対称的な2項における弁証法では両者の相互作用を得ることは不可能」
イリガライの考え「その非対称的な弁証法そのものが男中心の意味機構がおこなう一方的な説明」
まぁまぁまぁ。5番地.icon
・p39 イリガライの分析の力は、分析の範囲をあまりに広げてしまったために、弱まってしまった
たしか第3節では人間主義的な信条だとかが分析の範囲を限定してしまう、みたいな話が出てたはずだが、今回は広げすぎだと。5番地.icon
・p39 帝国主義
この比喩は良いものに関する比喩として使われないものだろうが、どういった効果があるのか。5番地.icon
・p40 男中心の意味機構が行う全体化の主張の検討が必要。フェミニズム自身の全体化の身振りについても自己検証が必要。イリガライには全体化の身振りがある。
身振りって和訳はなんなんやろ。振る舞いでええんやないか。5番地.icon
・p40 本書の冒頭で述べたことは、「女」というカテゴリは規範的なもの、排他的なものであり、階級や人種的特権はしるしづけられないまま放っておかれると主張する女たちのなかから、この包括化の身振りに対して多くの批判が
規範的とか排他的とか言っても、「女たちから」と書くことができるというのは、書かざるをえないというのはどういう事態なのか、みたいな話は出るのかな。5番地.icon
p41 「女」というカテゴリの「中身」を定めない連帯の取り組みの話
それは「定義とかはやめとこう」みたいな話で、結局はその連帯から弾かれる、あるいはとりあえずは受け入れるけど微妙に距離を置くみたいな高度なイジメみたいなんあったんじゃないかなみたいなんは思う。5番地.icon
p42 連帯の構造の理想的な形態を〈前もって〉示そうという統一への志向が、連帯の理論家から出てきてしまい、連帯のダイナミズムを損なってしまう
これは連帯そのものの問題なのか否か5番地.icon
p42 「同意」や「統一」かについて同じ前提で話し、それらを達成すべき目標とするリベラル・モデルへの逆戻りの危険性
たしかフーコーが誰かに対する批判で似たようなん言ってた気が。5番地.icon
p43 「統一」にはそれを可能にするアイデンティティがあり、「統一」の重視は、このアイデンティティないしはカテゴリの境界を撹乱する可能性を排除してしまう。
わからんでもない5番地.icon
p43 ジェンダーとはその全体性が永久に遅延されるような複雑さ
これはきっと和訳が悪い。複合体、ぐらいでいいんじゃないか。5番地.icon
5番地.iconしかしバトラーの言う「ジェンダー」、全体性に至ることがない、つまり限界をもたない、つねに蠢き、一個の個体のようにはならないジェンダーという概念(非概念)は、規範的なものなのか、事実としてそうであるという話なのか。
「事実」であるとしても、規範と「事実」はそうスッパリと別れているものなのか。バトラーにおける「規範」の考えもまた撹乱しうるものだとしたら、どうだろう。
たしかボルヘス『青い虎』に出てくる意味不明な石みたいなんがあったが、あぁいう感じとして言ってるのかな。
しかし、いつも思うのは、こういう考えは「女性の社会進出促進のための活動」みたいなんにおける「女性」にまで適用されるべきだとするのかーーバトラーが4説で示すジェンダーの在り方が「事実」だとするならそうなっておかしくはないーー、そうした「女性」概念は規範的で排他的なカテゴリだが「女性」のためになるので目をつむるべきだとするのか。とりあえず後者の場合だと、結局、「女性」というカテゴリは「旧来の」それと変わらない形で温存されることになるだろう。動的だとか永久に遅延するだとかいう考えには、いったいどんな効果があるのか。
実際p42で、「カテゴリーは本質的に不完全なものだと仮定することによってのみ」とかあるが、不完全だなんだ言おうが自分は「男ではない/女ではない」っていう前提があるもんなんだし、「自分は女だ/男だ」と主張したらそれで済むわけじゃあないんだし、なんやようわからんな。
男みたいな選手が女子競技でメダルをとってるみたいな話もあるが、あれも「トラブル」、撹乱の一つとしてありなのかな。撹乱じゃないとなると、バトラーが「連帯」の理論家について言ったのと同じように、バトラーは「撹乱の理論家」になってしまい、撹乱の可能性を狭めてしまう、みたいな話になるだろう。
ありあり、あれは撹乱だ、ってなるんなら、男子競技で女が同じことできるかっていったらそうじゃないだろうから、この点に関しては、「元男」という撹乱的なものを前に「女」には泣いてもらうしかないってことなのか。あるいは反発を認めて、色んな「女」観による絶えざる戦国時代を維持せよみたいな感じなのか。
バトラーは「属性」がそこに帰属するものとしての「主体・基体」に関して「実体の形而上学」だと第3節で書いていたが、その「属性」「カテゴリ」は、「不完全なもの」であるとはしても、「魚」という「カテゴリ」「属性」と「女」という「カテゴリ」「属性」とは同じにはならないんだろうから、動的とか言っても限界はあるんじゃないのか。
しかしバトラーは、p42で、
まず「女」というカテゴリーが在り、それを完成なものとするには人種・階級うんぬんといった様々な要素を単純に充填していけばいいと前もって仮定してしまうなら、それは間違いだ。と、言う。
続けて、
「(前略)それはまちがいだ。カテゴリーとは本質的に不完全なものだと仮定することによってのみ、そのカテゴリーを、様々な意味が競合する永遠に使用可能な場として機能させることができる」p42からp43
みたいなんを書く。
「間違いだ」の後の文をバトラーは「正しい」と見なしているんだろうが、そしてそれを「間違いだ」という理由としているんだろうが、「(前略)として機能させることができる」からこっちが正しいってことなら、あの「それはまちがいだ」は、真偽に関わるものではなく、より有用なものへの選択として間違ってる、みたいな話だったのかな。そう読むしかない感じだが。
だとしたや白けるなぁこれは。「人間主義的な信条」とか批判できる立場なんかな。
くま子.icon(4節からさっぱり分からない…もうちょっと格闘してみようかな…)
5番地.iconわからないところババーって書いちゃってくださいよ。
くま子.iconたぶん自分は前の3節のボーヴォワールとイリガライの議論の検討を流し読みしたために39頁がなにを書いているだろう…?という感じで…。たぶんだけどイリガライの批判に関して、イリガライは色んな≪他者≫の文化を男根ロゴス中心主義に落とし込みすぎたみたいな話なんですかね?
くま子.iconあと41頁からの急に出てくる「連帯」の話がちょっと自分にはよく分からないです笑
・女というカテゴリーの一貫性や統一性に固執すれば具体的な種々の「女たち」が構築される際の文化的、社会的、政治的な交錯の多様性を、結果的に無視してしまうことになる。41頁
・まず「女」というカテゴリーがあり、それを完全なものにするには人種・階級・年齢・民族・セクシュアリティーといったさまざまな要素を単純に充填していけばいいとまえもって仮定してしまうなら、それはまちがいだ。カテゴリーとは本質的に不完全なものだと仮定することによってのみ、そのカテゴリーを、さまざまな意味が競合する永遠に使用可能な場として機能させることができる。そうなれば、カテゴリーの定義上のこの不完全さが、強制力から解放された基準的な理想として機能しうるものになるかもしれない。43頁
・ジェンダーとは、その全体性が永久に遅延されるような複雑さであって、ある特定の瞬間に全容が現れ出るものではない。だから開かれた連帯というのは、目のまえの目標にしたがってアイデンティティが設定されたり、放棄されたりするのを認めるものである。それは、定義によって可能性を閉じてしまうような基準的な最終目標にしたがうことなく、多様な収束や分散を容認する開かれた集合なのである。44頁
ここら辺がバトラーの主張なのかな。でも書かれてることがうまく掴めない…。くま子.icon
2/15 ~第1章第5節を読む~
5番地.icon『トラブル』第5節。議論おかまいなく続けてください!
・そうした分析の前提の一つを批判的に考察p45
言うたら「環境」という、「自己」にとって「外部」のものが、「自己」の「外側」から、「自己」に「影響を与える」みたいな考えを批判するって感じか。真っ当ではあると思う。5番地.icon
・p46 「ひと」という概念が疑問に付されるのは、「首尾一貫しない」「非連続的な」ジェンダーの存在が出現するときである。
そうかぁ? なんで「ジェンダー」をここで重視する?5番地.icon
・p47 「ジェンダーアイデンティティ」とジェンダーアイデンティティ
この「」の有無は、前者は、或る文化の枠組みに収まらない(アイデンティティとみなされない)という含みがあることに、由来するんだろう。5番地.icon
・p49 イリガライにとって文法は、肯定的で表象可能な二項間の関係という、ジェンダーの実体モデルを支えるものなので
このあたりは、まず、主語(ヒュポケイメノンとかサブジェクトとか)と実体(ヒュポケイメノン・ウーシア)の話をイメージしとくと、文法とかが出てくるのはとりあえずなんとなくわかる、ぐらいになるかもしれない。参考までに。5番地.icon
「〈汝に働きかけつつある我〉、〈われに働きかけつつある汝〉という生き生きとした根源語の分裂から、〈働きつつある〉という分詞の名詞化、概念の実体化が行われたのちに、はじめて〈我〉が現れるのである」(ブーバー『我と汝』)
これはいわゆるデカルトのコギトへの批判になっているが、この「名詞化」、「概念の実体化」という働きが、ブーバーの言う根源語の世界における〈われ-なんじ〉および〈われ-それ〉から離反した「我」という理解を実現する、みたいな話だ。言語は(ときに)誤導的である、というこの種の考えは、ベルクソン、ハイデガー、フッサール、そしてバトラーによるとイリガライなど、ちょこちょこ見られる。5番地.icon
・p50 ウィティッグ「レズビアンこそ、私が知るかぎり、セックスのカテゴリーを超える唯一の概念である」
ほへー。5番地.icon
・p51 いわゆるフェミニズムっぽくない、いわゆる観念論的な話が続く。とりあえずバトラーはウィティッグの「実体の形而上学」ぽいところが気に入らないらしい。5番地.icon
・p51 ニーチェ登場。
・p51 バトラーによれば、ミシェル・アールは、「主語と述語の文法公式は、それに先行する実体や属性という存在論的な現実を反映していると信じられているために、こねような信仰のなかで育まれた「《存在》」や「《実体》」という幻想によって、多くの哲学の存在論が足をすくわれてきた」と言う。5番地.icon
Y ありがとうございます。ブーバー読書会も参加してみたいな。
5番地.icon『我と汝』はアフォリズム集みたいな感じなので、その点にかぎって言えば読みやすいでしょうね。「説教臭くて嫌だ」みたいなんとか、「抽象的でなにいってんのかわからん」みたいなんはあるでしょうが。
p55 「強制的で自然化された異性愛制度」
これまでにしばしば出てきていたが、そもそもいかにして、「男」という「ジェンダー」や「女」というジェンダー(ウィティッグによれば男性性はジェンダーではなく普遍性であり、ジェンダーは「女」というジェンダーただ一つなんだとしても)は、いかにして生じうるのかを書いてこそ、系譜学じゃあないのか。5番地.icon
p55 エルキュリーヌ・バルバンという両性具有者の話
これはp46の「首尾一貫しないジェンダー」の出現うんぬんの話なんだろうか。5番地.icon
・p56 エルキュリーヌは、「アイデンティティ」ではなくて、アイデンティティの性的不可能性なのである。
はぁ。5番地.icon
・p57 フーコーはエルキュリーヌの体験を、「猫がおらず、猫のニヤニヤ笑いだけが漂う快楽の世界」と想像している。(中略)実体化し階層化する名詞(もの全般)と形容詞(本質的かつ偶発的な属性)の文法では把握することができないジェンダー体験の可能性を、示唆するものである。
なんだか小難しく書いているが、いわゆる「反証」とどの程度の違いがあるのか。「実例」に頼っているぶん、大した思考じゃあないよ。5番地.icon
・p58 このジェンダー生産の虚構性をあばくためには、まず最初に名詞があって、次にそれに従属する形容詞があるという既成の枠組みへの同化を拒む、規制されていない属性の戯れが必要になる。
ラッセルの述語論と相性が良さそうだな。5番地.icon
p58 この意味でジェンダーはつねに行うということであるが、しかしその行為は、行為のまえに存在すると考えられる主体によって行われるものではない。
そして再びニーチェ登場。
5番地.icon「おこなうこと、もたらすこと、なることの背後に『在ること』はない。『行為者』は行為に付けられた虚構でしかないーー行為がすべてである」(『道徳の系譜』)が正しいことを、ここで考慮すべきだろう。
5番地.iconこうしてバトラーは「虚構」に対して、「正しさ」ないしは「真理」として、諸々の「属性(述語)」がそこに属するところの「実体(主語)」は見せかけであると、構築されたものであると、仮象であると、主張するわけだが、他の誰でもないジュディス・バトラーが、『ジェンダー・トラブル』を書いたのであり、常識的に考えればこの「事実」は戯れで宙に浮かせることはできないだろう。
金を借りたのは私であり、私はつねに私ではなくなっていくみたいな話を言うにしても、とりあえずそういうのを正しいと仮定しても、金を借りたら返すという「実体」という「虚構」に依拠したこの在り方が、『トラブル』という本を出したのは私でありその印税を後々にわたって受けとりつづけるのは私であるという「虚構」に依拠した在り方が、世が事もなく回るための条件であるとするなら、なぜ「虚構」を批判して、あまつさえそれに依拠した在り方とは異なる在り方を実行せねばならないのか?
バトラーは、「属性の戯れ」が必要になる、と言うが、その戯れは「文化」に規定された範囲を越えることはできるのか、よくわからない。「実体(主語)」だけが「文化」や「法」やなんやかんやで構築される「虚構」なのか。
「主語」抜きの「戯れ」、「撹乱」と言っても、或る「人」が継続的に良い戯れをしている、あるいは戯れを長年にわたり続けているとかいった場合、その「人」は後輩にとって「すごいパイセン」みたいな感じになるわけだ。
一発勝負の共通試験(旧センター試験)みたいなんとかだったら、テストに現れている振る舞い=外見のみを見て、たとえ一夜漬けによるものだろうが長年の勉強によるものだろうが、そんなのは関係なく、選択され塗り潰された紙上の数字だけを機械的に処理できるように、「背後」は無視して外見だけを評価できるだろう。
しかしそれはそういうふうに、人工的に作られた仕組みのなかでこそ可能な評価であり、バトラーが想定するような「行為」はきっと、どうしたって「行為者」をもたらすだろう。
くま子.icon今日の分読みました。
くま子.icon5番地さんのレスの最後の方の部分に関しては自分も似た印象を受けました。一応通読しただけなので雰囲気なんですけど、ニーチェの「おこなうこと、もたらすこと、なることの背後に『あること』はない。『行為者』は行為に付けられた虚構でしかないーー行為がすべてである」が正しいのであって、ジェンダーアイデンティティは幻想であり存在しない。そしてニーチェのこの言葉が指すように、虚構の存在である「私」(行為者)が行為したことによって、その結果として表れる「表出」からアイデンティティは構築される。
くま子.icon自分たちはまず確固としたアイデンティティがあって、その不動の存在者である私が行為すると考えるが、順番が逆なのではないか?ということなのかなぁと自分は読みました(文章下手すぎてわからないかもしれない笑)
くま子.iconつまり、行為することによってその都度アイデンティティがパフォーマティブに構築されるということなのかな?その辺は少し分かりませんが最近読んでる『社会心理学講義』に似たことが書いてあってそれと同じようなもんなのかな?と思いました。
〈私〉はどこにもない。不断の自己同一化によって今ここに生み出される現象、これが〈私〉の正体です。比喩的にこう言えるでしょうか。プロジェクタがイメージをスクリーンに投影する。プロジェクタは脳です。脳がイメージを投影する場所は自己の身体や集団あるいは外部の存在と、状況に応じて変化する。ひいきの野球チームを応援したり、オリンピックで日本選手が活躍する姿に心躍らせる。あるいは勤務する会社のために睡眠時間を削り、努力する。我が子の幸せのために、喜んで親が自己を犠牲にする。これら対象にそのつど投影が起こり、そこに〈私〉が現れる。
5番地.icon「自分たちはまず確固とした〜」だいたいそんな感じでしょうね。
5番地.iconより身近な話で言えば、「女を捨ててる」「男を捨ててる」みたいな表現の意味を思えば良いでしょう。出かけるときはきっちり化粧をするとか、日々の「些細な」、しかしジェンダーと関わりある実践の継続を通して、人は自分がそのジェンダーに含まれる個体として相応しい個体であることを示しつづけている。女は女であることを示す通過儀礼的な作業(passingーーハロルドガーフィンケルを参考にしてます)という実践をしつづけている。おそらくそういう意味で、ジェンダーは確固としたものではなく、「全体性を形成しない」「つねに未完のもの」といったことをバトラーは言うのではないでしょうか。今では珍しくなくなった考えであるどころか、「パス度」とか言ってどっかの部族かなにかみたいにイジメに使われたりする言葉ですが、とりあえずあぁいうのとは切り離して通過作業うんぬんのあたりは読んでください。あんま他の本を持ちだしたくはないが。「連帯」のところがよくわからないとありましたが、どういうところがわかりにくいですか。
くま子.icon大体自分が分からないというときはイメージできないというのが正しい場合が多くて、連帯の政治というのは民主政治みたいなものをイメージしたらいいんですかね?団結こそ政治行動の前提条件だとみなす仮定のもとに一応統一している雑多な集団のことを連帯と言っているのかなぁと今読み直して思いました
5番地.iconバトラーが批判する「連帯の政治」が、団結や「統一」を目的とする連帯の在り方ですね。
くま子.icon少しずつ分かってきた感。バトラーが批判する「連帯の政治」においては対話による理解がない。団結という仮定によって内部の矛盾が認められていない閉じた連帯である。たしかに「開かれた連帯というのは、目のまえの目標に従ってアイデンティティーが設定されたり、放棄されたりするのを認めるものである。それは、定義によって可能性を閉じてしまうような基準的な最終目標に従うことなく多様な収束や分散を容認する開かれた集合である」と書かれているから、開かれた連帯とは内部の矛盾が認められた集合体のことなのかな。今から自分なりにちょっとまとめてみます。
5番地.iconまとめなくていいんです。わからないところあったらそのつどリアルタイムで上げていくという。今からは大変なので、できるのであれば次回からということで大丈夫です。そのうえで、次回に読むための予習としてまとめる、という形であれば、少なくとも企画の趣旨には合っています。
5番地.iconそれはそれとして、「対話による理解がない」ということが問題なのではありません。そのことは、p41の「女というカテゴリーの中身を」の段落からp42までの箇所にしぼって見るとわかると思います。
5番地.iconわからないところよりなんとなくわかるみたいなところが多くて困るので、なんとなくでわかっちゃってるところを上げていってツッコミを待つスタイルに私は切り替えるか。やってみるとなかなか難しくて、バトラーどうこうより読書に関する思考のネタを手前の足で拾ってる感あるな。いい感じだ。
くま子.iconいつ「統一」に至るかを決定しようと心をくだくのではなく、何が本当の対話形式で、何が「同意」で、何が「統一」かについて全員が同じ前提で話し合うことが大事だ、ということですか?
5番地.iconp42 では、「対話の可能性を条件づけ」ているものへの問いが大事だとバトラーは言います。くま子さんが書いた考えはおそらくバトラーがリベラル・モデルと呼んで危険視するものでしょう。
5番地.icon実際の連帯というものを考えるのが役に立つかもです。或る連帯、コミュニティには、新規参入者や古参などがいるわけです。或る時期での「全員」が、「統一」や「同意」に関する或る考えに表面上は「同意する」振る舞いをしたとしましょう。そこに新規参入者が来たらまた「全員で」話し合うべきなんでしょうか。その新規参入者が、以前の全員が「同意する」振る舞いをしてみせた或る考えに、異見を唱えた場合、この新規参入者は排除される可能性が高いでしょう。「統一」を重視するならそうなるでしょう。バトラーはむしろ、その「統一」を可能にするものとしての、全員が共有するものとしてのアイデンティティとかを、否定しています。もちろん、どういう形での連帯を想定しているのか、名前のあるグループに所属する形なのか、Twitterや掲示板のように個々が勝手にやってる形なのか、そういったことによって理解は左右されるとは思います。
くま子.iconなるほど…ということは連帯の「統一」を目標とする仮定を退けろ、ということですか?別に一応の統一でもいいじゃないですか。それこそが開かれた連帯である、みたいな(質問ばかりで申し訳ないです)
5番地.iconそんなところだと思います。
5番地.iconp43 「カテゴリーの定義上の不完全さが、強制力から解放された基準的な理想として機能しうるものになるかもしれない」「分裂していると思われている形態のほうが、女というカテゴリーの「統一」を前提とせず、それを希求しないがゆえに、連帯行動を促進するのではないか」とは言っても、付き合いというのが長くなると、バトラーが言うのとは違って「人格」への評価というものがどうしても出るもんですから、バトラーは自分の考えのメリットを示唆してはいますが、時間というものを考慮してないんじゃないかってのは私にはあります。
くま子.iconすごく助かります。このスタイルでお願いしたいです。
くま子.icon全然明日でいいんですけど、実体の形而上学について自分の理解のガバガバ感があります。P51にミシェル・アールの言葉が引かれた部分を自分なりに読むと、実体の形而上学とは、主語と述語の文法公式がそれに先行する実態や属性という存在論的な現実を反映していると信じられている中で育まれた≪存在≫や≪実体≫という幻想から構築された形而上学のことで、これは単一性や秩序やアイデンティティを結果的に制定する人為的な哲学手段を構築している。この実体の形而上学のおかげで私たちは、例えば主体、自己、個人といった、元々は言語的現実しか持っていなかった架空の統一体を実体であるかのようにみなしている、とバトラーは主張しているのかな?と読んだんですけどそれでいいんでしょうか?
5番地.iconまた今晩にb
2/15 ~第1章第6節を読む~
5番地.icon『トラブル』第6節。出たよ出たよ権力、って感ずぃ。
・p61 ウィティッグ「わたしたちが身体的で直接的な知覚と信じているものは、じつは精巧につくられた神話的な構築物、すなわち「想像上の組成」にすぎない」
それをどうやって知ることができるのかみたいな話をぬきに「エヴィデンス」集めみたいに引用してもなぁ。5番地.icon
・p61 しるしづける
ところで、この「しるし」ってのはいわゆるレッテルみたいなもんでいいのかな。5番地.icon
・p62 たしかにウィティッグは、言語の権力は女を従属させ排除させるものだという考えに同調している
言語の権力ってなんやねん。5番地.icon
ま モニック・ウィティッグって実験的な作品を書いたフランスの女性作家なんですが、少し忘れられていたところで、バトラーが取り上げて英語圏で認知度が高まった感じがあります(本人もアメリカ在住だったかと)。ウィティッグ再評価という点でバトラーの功績は大きそうです。
・p63 「ポスト性器的な政治」
だんだんついていけなくなってきたぞ。5番地.icon
・p63 他方ラカン派の……フーコーの規制的実践の概念や……ウィティッグの唯物論的な説明よりも……
こういうときは、「内容」の理解は諦めて、バトラーがどのようにラカン派を位置づけているかなどを主題化したメモが要るだろう。とりあえずは、それぞれがどういうふうに位置づけられているかを把握する。5番地.icon
・p64 息子を母から引き離し、それによって両者のあいだに親族の関係を樹立する近親相姦タブーは、「《父》の名のもとに」制定された法である。
精神分析はいまや、あまり他人の本を読めていないとしばしば指摘されるポパーによる「反証」うんぬんで読まれもしないものだが、イリガライやなんやも含め、わりと意識してる感あるな。5番地.icon
・p64 ジャクリーヌ・ローズやジェーン・ギャロップ
ギャロップはどっかで見た覚えがある名前だな。5番地.icon
・p65 ウィティッグなどフランスの唯物主義フェミニストなら(中略)このような批判は、無意識という重要な次元ーーすなわち、主体の言説の内部に、主体の首尾一貫性を不可能にさせるものとして再登場するものーーを無視している。
この箇所では、ウィティッグ批判に「無意識」をもちだしている。5番地.icon
・p65 精神分析批評は、規範的なジェンダー関係のマトリクスの内部における「主体」の構築ーーおよびおそらく、実体という幻想ーーについてはうまく説明することができる。
この理解が、ウィティッグの考えーーバトラーによれば「主体」を温存している考えーーに対する批判に精神分析をもちだすことを可能にしてるんだろう。5番地.icon
・p66 セクシュアリティと権力は同延上にあると主張し、法から自由な撹乱的あるいは解放的なセクシュアリティの措定に暗に反駁しているフーコーをもちだすことは、賢明だろう。
となると、「法」の「内部」でいかにして撹乱やなんやかんやが可能なのか、という話になるのかな。5番地.icon
・p66 こうして産出されるものは、それ本来の目的から逸れ、単に文化的な理解可能性の枠を超えるだけでなく、現在の文化的な理解可能性の範囲を結果的に拡げるような「主体」の可能性を、予期せずして起動させるものなのである。
「こうして」に当たる箇所に、バトラーの主張があるわけだ。5番地.icon
ばる.icon言語の権力?「セックス」という言語上の虚構休憩時間であっさり読める文章ではない笑
・p67 女のセクシュアリティを、セクシュアリティの男根中心的な組織化から根本的に区別されるものだということには、問題が残る。(中略)自分のセクシュアリティの或る部分は男根的な機構のなかで構築されていると思う女は、「男に同一化している」とか「啓蒙されていない」といって抹殺される可能性があるからだ。
「名誉男性」とかな。遠回しな言い方でそれと同じことを言っている事態もあるだろう。5番地.icon
・p68 文化的に不可能
変わった表現だな。5番地.icon
・p68 セクシュアリティが文化の構築物だということに根本的な異議が唱えられないのであれば
セックスやジェンダーではなく、前節まではあまり出てこなかったセクシュアリティという表現が出てきたが、どういう風の吹き回しか。5番地.icon
・p68 残った問題は
そりゃそうだわな。5番地.icon
・p69 非異性愛的な枠組みのなかで異性愛構造が反復されることは、いわゆる起源と考えられている異性愛が、じつはまったく社会の構築物であることを、はっきりと浮き彫りにするものである。
ようわからん。なぜそもそも異性愛のほうが多いのか、そのあたりの話は出たっけな。5番地.icon
・p69 だからゲイとストレートの関係は、コピーとオリジナルの関係ではなく、コピーとコピーの関係なのである。
出た出た。5番地.icon
・p70 ジェンダーをおこなう可能性のうちのどれが、誇張や不協和や内的混乱や増殖を通して、それらを動かしている構造を反復し、かつ置換していくことができるのか。
さっきからこっから進まない。5番地.icon
・p71 セックスやジェンダーが構築物であるからこそ存在する可能性とは、どのようなものなのか
やっぱりなぁ。だからこその文化文化文化、言説言説言説。5番地.icon
5番地.iconp70あたりは一つの山場だな。
・p71 明らかにこういった企ては、女や男であることの意味を現象学的に解明するジェンダーの存在論を、伝統的な哲学の次元で示してみせようとするものではない。
・ジェンダーは構築物だという主張は、ジェンダーが幻にすぎず、人工物にすぎないと述べて、それに「本物」や「真正さ」を二元的に対立させることではない。
ジェンダーの存在論と、ジェンダーの存在論の系譜学を分けているが、系譜学があまりにも便利すぎるもんな感じがするこのあたりの箇所は、眉唾かな。5番地.icon
5番地.icon系譜学とか言って物語を書いてたら笑えんだろうし、フーコーもどっかで、私は物語を書いているとか言ってた気がするが、たぶんそれでもかまわないんだろうな。
・p72 人は女に生まれない、女になるというボーヴォワールの主張に何か正しいものがあるとすれば、そのつぎに出てくる考えは、女というのがそもそも進行中の言葉であり、なったり、作られたりするものであって、始まったとか終わったというのは適切な表現ではないということである。
p43の「ジェンダーとはその全体性が永久に遅延されるような複雑さ」と言うことを可能にしている意味、その意味をべつの言葉で表現したものがこれだろう。5番地.icon
p72「最終的に女になるということは不可能なのである」も参照。
しかし、それならそれで、進行形の最中における「女」というのは、結局なんなのか。なぜいまだ「女」という言葉で表現しうるのか、「男」ではなく。5番地.icon
5番地.iconよし第1章まで終わった。
くま子.icon全然明日でいいんですけど、実体の形而上学について自分の理解のガバガバ感があります。P51にミシェル・アールの言葉が引かれた部分を自分なりに読むと、実体の形而上学とは、主語と述語の文法公式がそれに先行する実態や属性という存在論的な現実を反映していると信じられている中で育まれた≪存在≫や≪実体≫という幻想から構築された形而上学のことで、これは単一性や秩序やアイデンティティを結果的に制定する人為的な哲学手段を構築している。この実体の形而上学のおかげで私たちは、例えば主体、自己、個人といった、元々は言語的現実しか持っていなかった架空の統一体を実体であるかのようにみなしている、とバトラーは主張しているのかな?と読んだんですけどそれでいいんでしょうか?
(※昨日のくま子さんのコメントに対する5番地さんの返答)
5番地.iconくま子さんのこの文章は、51頁と52頁に出てくる文を切り貼りしたものですね。
まず、『トラブル』の52頁では、
「「《存在》」や「《実体》」という幻想によって、多くの哲学の存在論が足をすくわれてきた。アールによれば、こういった構築物は、単一性や秩序やアイデンティティを結果的に制定する人為的な哲学手段を構築する」
と、あります。
くま子さんのレスでは、「人為的な哲学手段を構築する」のは「……された形而上学」ですね。しかし私が引用した、バトラーによるアールの主張の紹介文の箇所では、「《存在》」や「《実体》」が、「こういった構築物」に当てはまりはしないでしょうか。
「哲学手段」という和訳がわけわからん、あるいは原文もわけわからんのかな、という疑問や躓きもあるとは思いますが、とりあえずそれは置いときましょう。
つぎに。アールが「心理学上のひと(人格)を実体的な事物と見なす思考への批判を暗示する」(52頁)ものとして、実体の形而上学に対する批判を位置づけている箇所をバトラーは紹介していますが、くま子さんはこれも含めてまとめていますね。
読解としては、51頁の、「ジェンダー・アイデンティティに関する、非常に馴染み深い理論的な思考を支配している心理学上のカテゴリーに当てはめてみれば」とあるように、また、52頁でのアールが書いた文章の引用にもあるように、批判の矛先が違います。その違いをくま子さんのまとめは消しています。
また、「この実体の形而上学のおかげで私たちは」とくま子さんは書いていますが、52頁では、「主体、自己、個人は、ただその数だけ存在する偽りの概念にすぎない。なぜならそういった概念が、当初は単に言語的現実しかもっていなかった架空の統一体を、実体に変えてしまうからである」というアールによる文章があります。
この箇所のアールの文章で、「実体の形而上学」に当てはまるのは、「系譜学という手段をつかって論理を破壊することは、同時に、この論理に基づいて」における「論理」でしょう。
もっとも、「文法への信仰」がすなわち「実体の形而上学」であるならば、くま子さんによるまとめも或る点では間違いではないでしょう。しかしこのあたり、アールによる文章をバトラーは支持している(主張しているのではなく)と書くべきか、アールによる文章をバトラーは支持しているとバトラーは主張していると書くべきか、というところが難しいかな、みたいなんはあります。ちなみに私は前者をとります。
この箇所の読解としては、かりにバトラー自身も「実体の形而上学」に関する主張をもっており、それはアールによる主張と同じであるとしても、この箇所ではバトラーは「主張」はしていないんじゃないか。肯定的な形で引用してはいるが、この箇所から、「とバトラーは主張している」とは言えないんじゃないか。
(※以下読書会終了後にあった余談)
ま @ばる さん、ウィティッグの処女小説が邦題で『子供の領分』なのを見ると、ばるさんが反応しそうではありませんか。原題はちがうのですが、たしかに、子どもがらみではあります。
ばる.icon@まろあ ああ、ドビュッシーの『Children's Corner』ですね。好きな組曲です。第1曲目から楽しくなりますが、第5曲の 「小さな羊飼い」 (The Little Shepherd)から第6曲 「ゴリウォーグのケークウォーク」なんぞは好きすぎてループさせてよく聴いてましたね。娘のために書いた曲だったかな。美しい曲だからみんなも聴くといい。それはいいとして(笑)モニック・ウィティッグについては全く知らないのですが、『子供の領分』の作品紹介を読むと、「人間を物自体として捉える子供の眼、そこには無垢と同居する幼年の残酷さ、死の過酷さが純粋な形で展開される」と書いてある。『ジェンダー・トラブル』にも唯物論者なんて書いてありましたがね。ウィティッグにとって「女性」というカテゴリーは、ただ「男性」というカテゴリーとの関連性においてのみ存在するという考えかと思われます。レビズアンという男性排除の世界には女性はいません。これは「子供」と「大人」に置き換えても適応できるのかな。『子供の領分』は読んでいないのでよくわかりませんが。
ま@ばる さん、ウィティッグの小説は、実験的ですし、レズビアン要素はありますが、フェミニズム要素が強くなったのは、渡米してからかもしれないなあと思っています。最近なぜか、ウィティッグの邦訳を買いそろえたので、ちびちび読んだらご報告します。
ばる.icon1976年に渡米してるのか。なるほどなあ。調べたら渡米後の作品は邦訳されていない...のかな。なにか興味がわいてきましたな。一冊買ってみようかな。