ゴータマ・ブッダは反出生主義者ではない?
八四 自分のためにも、他人のためにも、子を望んではならぬ。財をも国をも望んではならぬ。邪なしかたによって自己の繁栄を願うてはならぬ。(道にかなった)行ないあり、明らかな知慧あり、真理にしたがっておれ。
第六章 賢い人(ダンマパダ)
三五 あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況んや朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。
第一章 蛇の章 三、犀の角
おそらく子供の視点で物を考えている現代の一般的な反出生主義者とは異なり、ゴータマ・ブッダは親になり得る者(大人)の視点で「出産否定」のようなものを説いている(反出生主義のバリエーションと誕生肯定)。 そして、子供を持つことは執着の原因になるため、解脱の妨げになり得るために、このように説いたのではないかと思う。実際、以下の詩句などにそれが表れている。
三四 師は答えた、 「子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執著するもとのものである。執著するもとのもののない人は、憂うることがない。」
第一章 蛇の章 ニ、ダニヤ
またゴータマ・ブッダには子供がいた。29歳の時に妻子を捨てて出家したブッダだったが(おそらく上記引用の理由のために妻子を捨てた)、その前に子供を作っていたという矛盾がある。
子供の名前はラーフラ(漢名:羅睺羅)といい、彼は後に釈迦十大弟子の一人に数えられ、正しい修行を為した密行第一と称された。
ブッダは反出生主義ではない?
一見、ゴータマ・ブッダは反出生主義を説いているように見えるが、仏教の専門家によるとブッダは反出生主義を説いてはいない。
反出生主義の出産否定は、すべての人は子供を産むべきではないという主張ですが、ブッダは、在家の人には子供を産むべきではないと言われていないので、反出生主義とは明確に異なります。
この記事には他にも理由が書かれている。
反出生主義の出産否定は「人生は苦しみばかりだから子供を作ってはならない」などというように考えるが、ブッダは上記のようにそういう発想の出産否定ではない。
そもそもブッダは「人間に生まれてくることは喜ばしいことだ」と言っています。人間に生まれてくることは得難い上に、人間に生まれなければ仏教の教えを聞くことができないので人間に生まれたこと喜ぶべきだと説いています。
ブッダが目指すのは、死後にどこかの世界へとふたたび生まれるのを完全に断滅することである。この人間世界で涅槃の境地に至ることができれば、その人間はもうどの世界へも生まれることはない。この点において、ブッダの考え方はインド的な「誕生否定」の思想であると言うことができる。しかしながら、それにとどまるわけではない。輪廻を巡る者たちが涅槃の境地に至ることができるのは、ブッダが解脱を完成したこの人間世界においてである。餓鬼などの世界においては、涅槃の境地に至ることはできない。 (中略) すなわち、人間世界へと生まれてきたことによって「もう二度と生まれることがない」涅槃の状態に達する可能性が開けるのだから、「この人間世界に生まれてきて本当によかった」となるはずである。これは「生まれてきたこと」の肯定、すなわち「誕生肯定」の思想である。