ゴドーは無意識の欲望の劇
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ゴドーの結末は宙吊り
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そもそも
ゴドー
はいない。
つまり顕在化したゴドーは各登場人物の形をとる
予定調和
的な読み方はほくそ笑む
ベケット
を
措定
してしまう
作者を創造しない
そもそもこれは観る作品ではないか
歌詞だけでは曲がわからないように、台詞と
ト書き
だけでは作品がわからない
「いわんとしていること」をより積極的に考えてしまう
前提
を
無意識
の
欲望
に求める
ギリシャ悲劇
や
シェイクスピア
劇にも観客側の「前提」はあった
デヴィッド・リンチ
のように、なんとなくわかるドラマ
無意識下に求めているということは、一応の言語化は可能である
ただし
『ゴドーを待ちながら』
の重要さは言語化よりも
無意識の欲望
を喚起するところにあるだろう
いまはなんでも無意識で固めちゃう読み方は窮屈だと思っている
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