ゴドーの結末は宙吊り
サミュエル・ベケット
の
『ゴドーを待ちながら』
について何人かで話していたら、即興みたいなかんじでこんなことを言った。
ゴドーが来ないのは、劇(
喜劇
・
悲劇
)の構造をむきだしにするためである。
また、やがて来るかどうかも最後までわからない。
来るだろう・来ないだろうとはっきりわかったら、それも一つの結末である。
『ゴドー』においては、結末が
宙吊り
になっている。
観客が見せられているのは、全体性が主人公をとらえない劇、全体性そのものの構造である。
全体性という言葉については
福田恒存
の
『人間・この劇的なるもの』
を読むとわかりやすい。
ギリシャ悲劇
の
主人公
や
ハムレット
は全体性の中に帰っていく。
ゴドーは帰らないし、ウラジーミルとエストラゴンも帰らない。
アプローズ、アプローズ!囚人たちの大舞台
もそういう狙いに満ちてる。
三島由紀夫はゴドーが来ないのを「けしからん」と言った
そのあとか前か、
マルセル・デュシャン
の『泉』や
ジョン・ケージ
などについても話した。