イコノロジーへの批判
エルヴィン・パノフスキーの提唱したイコノロジー(図像解釈学)は20世紀の美術史学の方法論としてある一定の方向を示した。しかし、一方で批判もある。 これに関しては近年のディディ=ユベルマンの批判が一番わかりやすいのだが、パノフスキーによる『メランコリアI』解釈を例にとり、次のような批判をしている。 パノフスキー流の見方が完全に成り立つ一方、この版画が制作された当時に広まっていた、座り込み頬杖をついた姿勢で表現される「メランコリー的キリストの図像」に範をとったとする解釈も同様に成り立つと指摘する。つまり図像というものが解釈の複数性を免れないにもかかわらず、 パノフスキーの「イコノロジー」に従うと、その可能性を切り詰めて一つの解釈だけを選び取ってしまう、という批判だった。
またディディ=ユベルマンは、パノフスキーの考える「意味」という概念そのものについても疑念を示している。何をもって「意味」と考えるべきかはまったく自明ではなく、芸術作品には意味作用しか存在しないかのような前提も自明ではない、という批判である。
この批判はすごいわかりやすい批判だと思うし、現代の絵画の見方としての文化にも一石投じている気がする。
例えば、薔薇の絵があったとして、「薔薇は〇〇を象徴しているから、この絵は〇〇を意味しているんだよ」というのは一つの解釈であり、そこから「なぜこの画家は薔薇の絵を描いたのか、当時の精神性が〜」という繋がりは、イコノロジーらしい解釈だと思うし、意義もあると思う。しかしそこで「ああ、じゃあこの絵は〇〇の絵なんだ〜」というのは非常に危険である。
図像の解釈には複数性がある。というかそこに”描かれたもの”自体が無限にあり、絵の具の滴りや点も”描かれたもの”である。そこに”描かれたもの”は薔薇だけではない。薔薇の絵を薔薇の絵、ある象徴の絵という意味作用だけに狭めてしまうのはつまらない。
ただ、パノフスキーの図像解釈学で美術の世界がすごく広がったと思うので、僕は素晴らしい美術家だと思う。一つの可能性、方法論を提唱しただけで、別に悪いことしたわけじゃないし。ただ、美術というものは彼の方法論だけに収まるだけのものでもないのであろう。