ばるさんベンヤミン『複製技術時代の芸術』の読書メモ
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これがベンヤミンやけん!
Ⅰ
芸術作品は常に複製可能だったよね。
人間が制作したものは、絶えず人間によって模造されたものじゃ(弟子が技能習得のために師匠の作品を模造したり、作品流布のために、商人が一儲けするために...)
しかし、複製技術による芸術の再生産はそれらとはぜんぜん異質のことがらやねん
複製技術発展の歴史......それについての解説
鋳造と刻印(ブロンズ像、テラコッタ、硬貨)
木版印刷
銅板印刷、腐蝕銅板(エッチング)
石版印刷(リトグラフ)
写真技術
最後の写真技術によって、「人間の手が、形象の複製のプロセスの中でこれまで占めていた一番重要な芸術的役割から初めて解放されることになった」とベンヤミンは言う。
その役割は、対物レンズに向けられる眼にふりあてられることになった。
芸術的役割は、手から眼へ
複製のプロセスの加速
写真技術→トーキー映画へ
音の複製(録音技術)
複製技術は1900年をさかいに一つの水準に達し、従来の芸術作品全体を対象として、深刻な変化を与える。また、もろもろの芸術方法にも独自な地歩を占めるにいたった。
この水準を明らかにするためには、複製技術と映画技術というふたつの現象によって、従来の芸術がいかなる作用を受けたか調べるのが有効ちゃうんかな、とベンヤミンは言う。ここがこの評論のキモみたいやね。
Ⅱ
どれほど精巧につくられた複製のばあいでも、「いま」「ここに」しかないという芸術作品の一回性は、完全に失われているよね。
「ほんもの」という概念は、オリジナルの「いま」「ここに」しかないという性格によってつくられる。
「ほんもの」の権威というのは、伝統もしくは、化学的ないし物理的分析による鑑定によって明らかにされる。
「ほんもの」の権威は、複製を受け付けない。
しかし、相手が技術的複製となると、そうはいかない。
技術的複製とは、手工的な複製ではなく、最新の写真技術のような高度な複製技術のことを言ってるのだと思われる
なぜか?
ふたつの原因
①技術的複製の、オリジナルに対する高度な独立性
例えば、写真(カメラ)の精密さ
人間の眼ではとらえられない影像、調節可能であるレンズだけがとらえられる影像
自然の視覚だけでは見落としてしまう影像を定着させてしまうことができる
②オリジナルの模造品をオリジナルそのものでは到底考えられない状況の中に置くことができる
例えば、写真やレコードなどは、従来寺院や演奏会場でのみ鑑賞可能だった芸術作品を自由に持ち運び可能になった
オリジナルの芸術作品を、視聴者の方に近づけることが可能になる
この二つの原因(特徴?)は、「いま」「ここに」しかないというオリジナルの芸術作品の性格を骨抜きにしてしまうんだ。
ばる.iconここら辺の話は、複製技術の発達により、オリジナル作品の、一回性すら備えた完璧な複製が可能になったというよりも、オリジナルの一回性を崩壊させてしまった、と考えるのがいいのだろう。
新しい複製技術の特徴により、我々鑑賞者の芸術作品に対する新しい捉え方が可能になった。写真の精巧さにより従来のオリジナル作品に対する新しいフォーカスが可能になり、持ち運び可能になったことで、オリジナル作品の性格を置き換え可能になり、(そこに行かないと見られないような)神秘性を失墜させることが可能になった。
芸術作品が「ほんもの」であるであるということには、実質的な古さをはじめとして歴史的な証言力にいたるまで、作品の起源からひとびとに伝承しうる一切の意味が含まれている。
で、この歴史的な証言力というのは、実質的な古さを基礎としとるわけだ。
そいで複製においては、その実質的な古さが無意味なものになってしまうわけで、そうなるとその作品における歴史的な証言力もぐらつきはじめるのね。
そうなるとその作品の権威もゆらぎはじめるのね。
ここで失われていくものをアウラという概念で、複製技術時代で失われていくものは作品の持つアウラだと、ベンヤミンは言う。でた、アウラ ばる.iconベンヤミンは自分の評論の中でこのアウラと言う概念をいろんな言い方で表現するが、このアウラという概念についてなんかはっきりした定義を与えてはいない印象があるのだ
複製技術は、複製の対象を伝統の領域から引き離してしまう
これまでの一回限りの作品のかわりに、同一の作品を大量に生産し、そのつくられた複製品をそれぞれ受け手(鑑賞者)の方に近づけることによって、一種のアクチュアリティ(現実性)を生み出している。
これらのプロセスは、伝統を激しく揺さぶるものである。
で、ここら辺は現代の危機(現代っつってもベンヤミンがこの本書いたのは1936年だが)と人間性の革新と表裏一体をなすものだとベンヤミンは言うのね。こんにちの大衆運動とも無縁ではないんだと。
特に映画の社会的重要性を、ベンヤミンは推す。
映画は、文化遺産の完全な総決算とまで言い切る。
一九二七年、アベル・ガンスは「シェイクスピアもレンブラントもベートーヴェンも映画になるだろう。 ......すべての伝説、すべての神話、すべての英雄ものがたり、すべての宗祖、いや、すべての宗教が……光の芸術によるよみがえりを待ち望んでいるのだ。そして英雄たちは、すでに入口に殺到している」と熱狂的に叫んだ。このとき、ガンスは、おそらく自分ではそれと気づかず、全面的な総決算への呼びかけをおこなっていたのである。
ばる.icon読むとわかるが、ベンヤミンって映画に興味津々なんだよね。この評論も半分ぐらい映画の話のような気がするな。当時、非常に新しい、革新的な表現分野としてとらえられていたんだろうなと思う。
Ⅲ
歴史時間の中での、人間の集合体のあり方の変化による、知覚様式の変容について。
人間の知覚が形成される方式(知覚のメディア)は、歴史の制約も受ける。
古代芸術、ローマ後期、民族大移動の時代、古典主義の時代それぞれに異質の知覚が存在していたという話。
過去の学者も、この辺の研究はしていたが、知覚方法の変化に表現された社会的変革について明示しようとしなかった。
現代(ベンヤミンの時代)では、この点の適切な考察をすすめるのに好都合な条件がそなわっているとベンヤミンは言う。
知覚方法の変化に表現された社会的変革→知覚のメディアの変化によるアウラの消滅
ここで、ベンヤミンは、歴史の場にもちこまれたアウラの概念を、自然界におけるアウラの概念によって補足説明する アウラの定義は、どんなに近距離にあっても近づくことができないユニークな現象、ということである。ある夏の日の午後、ねそべったまま、地平線をかぎる山なみや、影を投げかける樹の枝を眼で追うーーこれが山なみの、あるいは樹の枝のアウラを呼吸することである。
『複製技術時代の芸術』p17より
さらに
以上述べたところから、現代におけるアウラ消滅の社会的条件を考察することは、きわめて容易なことであろう。
マジ?
現代の大衆は、事物を空間的にも人間的にも近くに引きよせようとする切実な要望があり、他方また、大衆がすべて既存のものの複製を受け入れることによってその一回限りの性格を克服する傾向が存在する
手近なものを模写し、複製して所有しようという要求
新聞、ニュース映画による一回性と反復性
事物を覆っているヴェールを剥ぎとり、アウラを崩壊させることこそ、現代の知覚の特徴である
現代の世界では、「平等にたいする感覚」が非常に発達していて、人々は一回限りのものからでさえ、複製によって同質のものを引き出そうとする。
ばる.iconベンヤミンの唐突なサマータイムラブに動揺するが、そのあとに続く文章を読むと、自然の山なみなどと我々は本来距離感のあるものだが、現代の大衆はそれを引きよせようとする、そういう知覚の特徴?があるということを述べていることがわかる。ベンヤミンは別のところで、アウラ概念について「空間と時間の織り成す一つの奇妙な織物」ように表現している。具体的にどういった概念かは詳しくは解説していない。 Ⅳ
芸術作品の一回性は、伝統と深い関わりがあるよね。
伝統はその土地土地とか時代背景とか価値観によって変わりやすいよね。
例えば、古代のヴィーナス像はギリシャ人には礼拝の対象だったけど、中世カトリック教徒の間では災いの対象だった。それぞれ異なった伝統によって導かれている。
だだ、そんな対照的な両方に共通してることがあるんだ。
それがヴィーナス像のもつ一回性であって、アウラなんだ。ふ〜ん? 芸術作品が伝統と深いつながりがあるってのは、その礼拝的側面を見ればわかる......
最古の芸術作品が発生したのは、最初は魔法の儀式に、次に宗教的儀式に供するためじゃった。
ベンヤミンはこう言い切る!
芸術作品のもつアウラ的性格は、この儀式の道具という機能から解放されん。
「ほんもの」の芸術作品の価値の根拠は、その儀式性にあるし、根源的な利用価値もそこにあるんだ。
ばる.iconざっくり言うと、儀式の道具とかって、造形的に美しかったりしても、それ自体はただの壺だったりするわけじゃないですか。壺で腹は満たされん。ただ、それに霊が宿ってるとか神にお供えするとかで価値がグンと跳ね上がるわけよね。礼拝の対象となり、「ほんもの」「一回性」(アウラってのはざっくり言うと本物のオーラみたいな話だ)を持った持物→芸術作品として崇められることになる。で、「あの壺は神様の宿る壺で、先祖代々の言い伝えであれには触れたらならんということになっておる......」みたいな形で伝えられていくと、伝統ができてくる。
この辺についてベンヤミンは詳しく書いてないけど、古代の儀式がその社会形成に必要なものだったと考えると、元々芸術作品は儀式の道具として、社会の存続に利用されてきたのかもしれん。本部でライチさんのおっしゃていたこととつなげてみた。
今読んでいる「聖なる天蓋」では、社会や文化は集団意識が投射されたものであり、そこに宗教性(神聖性)が与えられることによってその社会の存続が保たれると言っています。
で、時代とともに人間の中で信仰心が薄くなっていくじゃないですか。でも、非宗教的なかたちで美の礼拝が行われるようになって、それは世俗化された儀式の一種なんだとベンヤミンは言う。
非宗教的な美の礼拝形式は、ルネサンスとともに確立されて、300年ぐらい続くわけです。 しかし、それ以降に「ほんもの」とか「一回性」とか「アウラ的性格を持つ芸術作品」だかの存在を揺り動かす動きが出てくる。それが複製技術、写真技術の登場である。
革命的な複製手段である写真技術の登場によって、芸術の真正性に危機が迫っていると感じた人たちは、それが失われないように芸術における芸術の純粋性をより強く意識するようになります。「芸術のための芸術」と言い出す。先述したように芸術と社会的機能というのは本来つながりをもっているわけだが、それを無視して、「純粋」芸術とか言い出してしまうわけです。これはある意味裏返しの神学とも言えるでしょう。 ただ、ベンヤミンは芸術作品の技術的複製の可能性が芸術作品の儀式への寄生から解放する機会だと言い放つ!
芸術作品の真贋の基準がなくなってしまう瞬間から芸術の機能は大きな変化を遂げるわけだが、ベンヤミンは、複製技術時代において、芸術の存在根拠が儀式から、政治に置くことになると言う。
V
ベンヤミンは芸術作品に接する場合に見出される二つの対極した価値体系があると言う。
まず、礼拝的価値に関して...
先述したように、芸術作品の制作は、礼拝に役立つ物象の製作から始まった。
この場合作品を眺めるということよりも、それが存在しているという事実の方が重要だった。
石器時代に描かれたような壁画は、一種の魔法の道具だったり、礼拝の対象だったりしたっちゃんね。
で、こういう礼拝的価値のある芸術作品は、秘密の場所にとどめておこうという傾向があった。(聖職者しか眺めることのできない神々の像、覆い隠された聖母像、中世の寺院の彫像だったり...)
時代とともに芸術作品に対する、儀式的な価値体系が薄れていった時に、芸術作品を展示する機会が生まれてきた。
展示する作品として有効なのは、寺院に固定されているような神々の像やフレスコ画ではなく、持ち運び可能な胸像だったり、タブロー絵画だったりした。
そして複製技術のさまざまな方法が発達するにつれて芸術作品の展示の可能性が飛躍的に増大したっちゃんね...。
この両極(礼拝的価値と展示的価値)の量的な推移が、芸術作品の性格の質的な変化に転化する。
ばる.icon書き方が回りくどいが、あらゆる芸術作品がコピー可能となり、その量的な膨張が起きることで、芸術作品の唯一性や神秘性が凋落する。芸術作品の質的な変化が起こるということだ。
で、こんにち(こんにちっつってもベンヤミンがこの本書いたのは1936年だが)の芸術作品は、そのアクセントを展示的価値に置くことで、これまでとは異なった機能を持つようになった。この機能の中では今のところ芸術的機能が際立っているが、これが実は付随的な機能と認識されることもあるかもしれんとベンちゃんは言う。
ばる.iconこの辺多分重要で、芸術作品が商品となった現代では、その芸術的機能よりも、投資商品的な機能が中心となっているようにも感じる。