はじめの雑感集(仮)
男もすなる日記というものを女もしてみむとてするなり
2026/4/8水
ラカンの『論理的時間と予期される確実性の断言』についての考察を整理しておく。
「論理」というものは、基本的に個人の中で組み立てられる。だが完成したものについては共有可能である。
例えば、数学はまず個人の中で組み立てられ、論文などの形で発表されて初めて公共物となる。
だがそれを個人が組み立てるためには、論理を習得せねばなるまいのではないか。それは個人の中にではなく、予め外的に存在するものではないか。
そもそも人はどのように論理を習得するのか。何から習得するのか。それは人が違っても普遍的に共有可能なものなのか。
共有可能である。なぜなら数学は皆で共有しているではないか。
共有可能ではない。なぜなら一つの問題に対して無数の論理が立てられるではないか。
それは論理ではなくて意見なのではないか。だが論理的に考えて意見というのは出てくるのではないか。
やはり「論理」も主観と客観が交錯する地点に存在するのか。
従来の哲学や論理学は「論理」をある種の真空状態、理想状態、つまり外的な影響がない状態で考察をしてきた。一人で考えているならばそれでもよい。『論理的時間』が画期的なのは、そこに他者が介在することである。まずは自分一人の頭の中で論理的に考察し、解を出す。従来の哲学ならこれで良かったのだが、『論理的時間』の場合は、他者の動きによって自分の解が揺さぶられるのである。自分が解を出して動き出す。しかし、他者も動く。ここで自分の解をまた検討し直す必要が出てくる。しかし、全てが他者にゆだねられてしまえば、そこには論理もへったくれもない。他者の動きを見て、検討を再開するのは、また自分の頭の中で論理を組み立てるのである。ここに主観と客観の弁証法、ダイナミズムが生じる。我々が生きている現実世界はむしろこれに近い。我々は現実、真空状態で考えるということはまず無く、他者や外的な状況という様々なノイズの中で考察をし決断をしていく。せっかく解を出したとしても、このノイズが変化すれば考察をやり直すということもままある。このように現実世界の縮図が『論理的時間』に凝縮されているのである。
改めて書かれている内容を整理しておく。ここに書かれているのはある思考実験である。登場人物は3人の囚人と監督者である。道具は白3枚、黒2枚のディスクである。囚人の背中にそれぞれ一枚ずつディスクが備え付けられる。つまり、2枚は使われずに残る。何色のディスクが備え付けられているかは自分からは見えない。自分から見えるのは相手二人のディスクの色だけである。囚人たちは言葉を話すことは禁止されている。相手のふるまいなどから、自分に付けられているディスクの色を考察し、監督者に伝える。一番早かったもの一名のみが解放を許される。ただし当てずっぽうではなく、必ず自分がその色を選んだ理由を論理的に説明できなくてはならない。そしてこの実験においては白3枚が選ばれる。つまり、黒2枚は使われずに残る。ここまでが思考実験の前提条件である。
自分の色を推察するポイントとなるのは二回の中断動議=スキャンションである。スキャンションとは元々詩の用語で、脚韻や区切りを意味する。ここでいうスキャンションとは、囚人たちがお互いに立ち止まり見合わせる瞬間のことである。一回目の中断が生じることで何がわかるかというと、二枚の黒が使われている可能性はゼロだということである。なぜなら、二枚の黒が使われている場合は、必ずそれを見た一人は立ち止まることなく動き出すからである。したがって、三者が少しでも見合わせる瞬間が生じた場合、二枚の黒の可能性は排除される。
次に二回目の中断である。一回目の中断で二枚の黒の可能性が排除されたのちに考えることは当然、黒が一枚か黒が0枚のどちらかである。3人の囚人をそれぞれABCとし、その中のある一人の囚人Aの視点に焦点を当てよう。Aには白が二枚見えている。ここでAが考えるべきことは、自分が黒か白かのどちらかである。もし自分が黒である場合、他のBCはすぐに駆け出すはずである。なぜなら、二枚の黒の可能性は一回目の中断で排除されている以上、誰か一人が黒であれば、即自分は白だと決断できるはずだからである。しかし、現実は誰も動かない。このことから、自分は白であると決断し、動き出す。そして他の二人も同時に動き出す。しかし、ここで2回目の中断が生じる。なぜなら、「相手が動かないこと」を根拠に自分が白であることを決断したのだから、相手が動いてしまえば、その根拠が崩れるからである。相手の動きにより、自分が黒である可能性が再浮上してしまう。それゆえ、一度ここで動きを止めなくてはならない。ここにこの思考実験のミソがあるのだが、実はこの三者は全く同じ状況、同じ思考状態に置かれている。「自分が白であると決断し動く。しかし他者も動いたため、自分が黒であるという可能性が再浮上し止まる。」この思考と動作が三者に同様に生じるのである。それゆえ、三者が同時に立ち止まることになり、二回目の中断が生じる。だがそもそも自分が黒であれば、相手が足を止める必要はない。なぜなら、一回目の中断により二枚の黒が排除されている以上、一枚の黒を見ているものがいれば、そのものは白であることが確定するからである。しかし、実際は3者とも足を止めた。それゆえ、この二回目の中断により、自分が白であることが確定するのである。
2026/3/10火
スピードスケート1500m 高木美帆。下に最後のピースがオリンピックで埋まったということを書いたが、本当の最後のピース、最後の最後のピースを埋めることはできなかった。それは1500mの金メダルであり、さらに言えば、最後の1周をどう滑るかという課題を克服できなかったということである。最後のラップで極度にタイムが落ちる、この課題に近年ずっと苦しんでいたのだが、オリンピックになったからとて急にできるようになるわけもなく、蓋を開けてみればいつも通りの展開であったということである。リアルタイムで観戦していたが、最後の一周でマイナスのタイムを出してきたときには、本当に金メダルを取るんじゃないかと興奮したものである。そこからラップが急に落ちて結果6位ぐらいだったと思う。事前の嵐の相葉とのインタビューで、「自分が置かれている立場は今までとは違う。全力でいかないと表彰台にも上れない。」というようなことを語っていた。これを鑑みるに、高木は今回のレースで賭けに出たのだと思う。いちかばちか、最初から全力で飛ばしてそれでだめになったら仕方がない。つまり、金メダルかそれ以外かというレースをしたのだと思う。これは横綱が取る相撲ではない。すなわち、一発逆転を狙って限りなく低い可能性のところをダメもとで狙いに行くようなレース。
2026/2/16月
スピードスケート500m 高木美帆。役者が違う。何年間も迷いの中で過ごし、ミラノへも迷いの状態で乗り込んでいたはずだ。にもかかわらずオリンピックが始まってからぐんぐんと調子を上げている。オリンピックの重圧をエネルギーに変えている。本番が彼女の足りなかったピースを埋めてくれるかのようだ。もう既に要素は揃っていたのだ。だが要素が揃っているだけでは、その光明が本人には見えない、暗闇のままである。化学で過冷却という現象があるように、禅匠が竹の音一つで悟りを得るように、オリンピックの本番が開花の触媒となった。オリンピックの魔物がいるとすれば、それは選手を重圧で潰しかねない一方で、魔物を飼いならせばそれが最高のエネルギーとなる。同じ魔物が、一方では人を潰し、他方ではエネルギーを与えるというのは、実に面白い。
フィギュア男子 マリニン。圧倒的優勝候補であったにもかかわらず、村瀬とは対照的に土壇場での心理が弱気の方へ流れてしまった。村瀬の所でも書こうとしたが、「心のあり方は選べるのか」という問いがある。選べるのであれば選手ならば誰しも強気の方を選びたいはずである。だが実際はそう簡単ではない。「心のあり方は選べるのか」という問いは、通常の対象のように、客観的対象を問うようには設定することができない。つまり、「心のあり方は選べる」と思っている人の方が、「心のあり方は選べない」と思っている人よりも選べる可能性はぐんと高まる。このように主観の在り方が心に影響を既に与えてしまうからである。そうであれば、「心のあり方は選べる」と思っていた方がいいのならば、どうすればそう思えるのか。ここで問いが無限後退してくのがわかるだろう。無限後退の先にある不動の動者、何らかのx、未知の何かが必ず残る。これを神と置く、こういう思想が入り込む余地がここに生じる。いや、その場所に神を置くということこそが信仰と呼ぶのかもしれない。
2026/2/14土
スノボハーフパイプ男子 平野歩夢。一番印象的だったのは3回目にダブルコーク1620をダブルグラブで持ってきた所である。2回目の滑りでルーティンを完遂したが86.5と点数が伸び悩んだため、3回目にさらに難易度を上げてきたという所だ。ここに平野の真骨頂というか、全く彼は諦めていなかった。審判に不満を持つわけでなく、いやそんな暇はない。あれがその点数なら3回目はじゃあこれをやってやろう、という攻めの姿勢。ここに胸を打たれる。周囲は諦めたかもしれない、でも彼は諦めていなかった。最後まで本気で金メダルを狙っていたのかもしれない。この大会、平野は記録よりも記憶に残った。
モーグル 堀島行真。挑戦と勝負が一致しないのならば、その種目は衰退していくだろう。誰も挑戦しなくなるのだから。挑戦しないで無難な方をやった方が点数がいいのであれば、誰も高難度の技に挑戦などしなくなる。そのような競技は伸びしろがない。
スピードスケート1000m 高木美帆。アスリートならば誰もが努力をして探求をする。それは大前提だ。だがその中でごく稀に求道的になっていく者がいる。高木がそうでイチローがそうだ。努力していくことと求道していくことは何かが違う。求道するものは無駄をそぎ落としていく。求道するものは相手との勝負にこだわらなくなる。「自分の理想の滑りがしたい。」高木が「道」の概念を意識しているわけではない。自然にそうなっていくのだ。おそらく過去のそのようなものたちの集積が「道」という概念を生んだのだろう。道を意識して道を歩むのか、意識せずして気づけばそうなっているのか。ウオーミングアップ、本番、試合後、インタビュー、全てが面白い。
スノボビッグエア女子 村瀬心椛。土壇場で人の心は結局のところ二択しかない。弱気になるか強気になるかだ。彼女は今回強気になれた。アスリートであれば誰もがそうありたい。そうあれた方がいい結果が出る可能性は高い。だが誰もがそうあれるわけではない。
スキースロープ女子 近藤心音。SNS時代のオリンピック。「同じ土俵に立ってから言え」それは実にそうだ。だが言葉というものには同じ土俵に立ってしまう(ように感じられる)効果がある。規制は必要だ。だが批判がゼロになることもないだろう。自分の心は自分で守らなければならない。そして守ることができる。「同じ土俵に立ってしまう」と感じるのも自分の心だ。「同じ土俵などではない」と自分の心で決めるんだ。
2024/1/27土
何かを選択する時、必ず良い方を選ぼうとするだろう。そのために考える、思考、論理を使う。ここで問題点が二つ出る。
一つに、論理は脳の原理なので、それが現実にはまっているとは限らないという点、もう一つに、現実は複雑なので全てを思考し尽くすことは、人間には不可能であるという点。これに対して取れる態度は二つある。一つは、この限界を認識したうえで、暫定的なものとしてでも判断を決めるということ。時間は永遠にあるわけではないので、永遠に悩んでいるわけにはいかないから、完全な答えでなくとも判断を下して進むということである。もう一つは、その限界を認識せずに、自分で考えたことがそうであると思い込んで進むということである。一般的にはこういう人は多いのではなかろうか。前者の態度、つまり自分の思考の限界を考えるというのは、多少とも哲学なりなんなりを勉強して始めて養われることだろうから(もしくは元々そういう傾向を持っている人が哲学を勉強する傾向が高いというのもあるかもしれない)。誰でもが普通に考えることではないだろう。ここで考えてみたいことがある。それは判断に確信は必要だろうかということである。自分の考えたことがそのまま現実にはまっていると考える人は、ここは問題にならず当然自分の判断に確信が伴う。一方、自分の思考の限界を考える人は確信が持ちづらい。確信が持ちづらいということは、判断ができづらい、先延ばしにしてしまう傾向を持つということである。自分がある程度考えたとしても、それを疑ったり、その先があるのでないかと考えるからである。やはり、判断と確信というのは密接に連携しているだろうと思う。ただここで厄介なのは、判断というのは客観的なことがらであり(少なくともそういう体である)、確信というのは主観的なことがらであることである。つまり、人が判断を下そうとするとき、少なくとも当人は客観的に正しい事、いい事はなんなのだろうかという方向で探求を行う。最初から主観を求めて判断をしようとすることはないだろう。結果的にそうなることはあったとしても。自分の思考の限界を考える人は、客観(対象)を見ようとする意識が強いのだろう。対象を厳密に見ようとしたとき、まだ自分の思考が至っていない、パズルのピースがはまっていないということに気づくからである。だから同時に自分の思考の限界に気付いてしまう。そしてそのはまっていないピースが考えてわかることなのかどうなのかという問題がある。そもそもわからない、もしくはわかるのにとても時間がかかる場合がある。だが、判断は今下さないといけない、しかし確信は持てない、曖昧な所が見えているからである。思考の限界を考える人は、このようなジレンマに陥るだろう。この一歩先に行ってみるとすると、自分の考えられる部分と考えられない部分を線引きするのである。考えられる部分は徹底的に考える、それを考えたならば、完璧な見通しが立たないことを受け入れてそこで判断を下すのである。だがこれは現実には難しい所も出てくるだろう。何が考えられる部分で、何が考えられない部分かの判断を下さないといけないからである。つまり、判断を下すための判断が必要になる。ここに判断の無限循環が生じてしまう。現実的には、きっちりと線引きすることは難しいため、ここも考えられるんじゃないかとまた判断を先延ばしにしてしまう。だがここまでの話はある前提があり、それは「客観が判断を下す」という態度である。つまり、判断する対象を精査した結果そこに答えがあるという態度である。この態度を前提としている以上、対象に不明な点があれば判断を下すことはできないということになってしまう。これと関連しているのだが、もう一つの前提として、「完全な見通しを求める」という態度である。この態度を前提としている以上、完全な見通しが立たない限り判断は下せないということになってしまう。しかし、現実的なことがらに対して、完全な見通しをつけるというのはどだい無理な話である。そうなると、そこで求められる態度は「蓋然性」や「直感」などが必要になってくる。「こうなる確率が高いだろう」とか「なんとなくこちらが正解なような気がする」といった態度である。有能な経営者や昔の戦国武将など、つまり決断が常に求められる立場にあり、比較的良い決断を繰り返しているであろう人間は、結局ここの能力が高いのではないかと考えている。ここまできて考えるべき問題は、考えるタイプの人間が、選択においてどのように確信を持つべきかということと確信を持たずして判断することは可能かという二つの問題である。
2024/1/1月
自分の場合記憶が鮮明過ぎて、改めて2023年を振り返る必要性をあまり感じないというのがある。なんなら毎日のように振り返っているともいえる。誰かに2023年振り返ってと言われたら、その場でうざい位にこと細かく1月から振り返ることができる。これと同じで自分にはあまり「懐かしい」という感覚が無い。例えば、高校の友達とかと会っても、高校の頃の出来事とか、集まりの時に作ったパンフレットのこととか、友達は「懐かしい」と言うけど、自分は昨日のことのように鮮明と覚えているので、全く懐かしいという感覚がない。先日小学中学の同窓会があったのだけれど、そこにいた人の小学校時代に着ていたジャージとかジャージのブランドとかサッカーシューズとかサッカーシューズのブランドとか逐一覚えているので、全部伝えてあげた。笑「懐かしい」という感覚を持つためには一旦「忘却」が必要。自分はあまり忘却がないため、懐かしいが無くなる。
2023/12/24日
2023年M-1。さや香の決勝ネタ、アープラ的には高評価だよね。一般受けはしないだろうなとは思ったけど、個人的には面白かった。あそこで何であの尖ったネタを持ってきたのか聞いてみたい。早速ツイッターで「さや香のネタ」がトレンド入りしてるけど、やっぱり新山って偏差値高い高校の出身みたいだね。勉強してるタイプが作るネタだよね(全然そうだとは思ってなかった)。相方はどう思っていたんだろう。自分も今までの人生でああいう部分(学問的な部分)って一般社会の中では比較的隠して生きて来てたから(アープラにはそういう人多いと思うけど。だからこそアープラが受け皿になるんだけど。)、ああいう晴れの舞台で新山がそういう部分を全開にネタをやっていて、面白さとヒヤヒヤ感が同時にあった(それは自分が勝手に投影しているだけなんだけど)。新山は自分の中のそういう部分と一般社会との兼ね合いって今までどういう風に付き合ってきたんだろうな。自分みたいに隠してるタイプだったら、あの場でああいうネタはしないだろうなとも思うし。今までのさやかのネタはあまり好きではなかったけど、今回で一気に好きになったな(世間と逆)。普通のネタをやれば勝てた勝負だっただろうに。勝負師なのか無謀なのか、何も見えていなかったのか、わかった上でやっていたのか。
後日分かったこと
新山は教育大出身
スーマラの武智はあのネタをやることを「17回も止めた」ということ
さやかは新山がネタを作っていて、新山にネタの決定権があるということ。おそらく、話し合って何のネタをするのか決めるという感じではない可能性がある。武智いわく、「あのコンビは仲が悪い」(まぁこれは冗談も含むだろうけど)
元々このネタができた経緯は、他の何組かの芸人たちとユニットライブをやっていて、コロナ禍で無観客になっていた時に、芸人同士でネタを見せあおうということになった時に作ったネタだということ。つまり、内輪向けに作ったネタだったということ。
だけど新山はこのネタにこだわりがあり、M1に臨む1年前にはこのネタを決勝でやることを決めており、このネタを決勝でやるためにエンゾのネタを作ったということ。
(余談)こういう時、千鳥の大悟は落ち込んでいるさやかに優しかった。
だがここまでのことがわかっても結局わからないままだとい仲うのは、新山が優勝を狙いにいったのか、優勝は度外視して自分のネタをやることを優先したのかということ。もし後者なのであれば、新山はやりきったのだから何も落ち込むことはないのだが、やはり何か落ち込んでいる様子があるような所を見ると、完全に後者でもないのかなという所もあるし、わからない所がある。
ジンギス談にさやかが出演している回を見たのだが(収録はM1前)、上記のコンビ仲悪い説はどうやらマジらしい。
ヤーレンズはファーストラウンドで爆発した分、決勝でそれを越えるのは難しかったかなと思う。さやかのネタは上で書いた通りだから、令和ロマンの優勝は妥当かなと思う。ファーストラウンドを含めると、真空ジェシカが安定の面白さだった。個人的にはくらげも面白かった。ミルクボーイと被るし、それを越えていないというのはそうなんだけど。それとダンビラムーチョの歌ネタも良かった。特に2曲目のアイドルはイントロ無しで最初から歌詞が入るから、またイントロからかなという予想を裏切られて面白かった。
2023/12/19火
「普通」ということから逸れているという自己認識のもとに生きている人は、そこに自己を卑下する感覚がついて回ることからは多かれ少なかれ逃れることはできないと思う。だが、他人に迷惑をかけているのでなければ(小さいことではなく犯罪レベルで)自分の人生を卑下する必要は何もないぞ、と声を大にして言ってあげたい。仕事がない、外に出られない、学校に行けないなど挙げればきりはないが、そういうことが自己を卑下する原因にはなりがちなのだが、その影響が及ぶ範囲って結局は自分までだ(それが多くなれば社会にも影響は出るでしょ、というのはまた別の話で)。だけど自分の人生に何らかの形で不満(上記のことというわけではなく本当に様々な形での何らかの不満)を抱えている人が犯罪を犯してしまう可能性というのはあるのだが、そこで犯罪を犯してしまった瞬間に、自分だけの問題ではなくなってしまう。ニュースになるような凄惨な事件を起こしてしまった人が、たとえ上手くいかない人生であったとしても、犯罪を犯すことなくただ自分の人生を生きていてくれればどれだけよかったことだろうか。それがゆえに「ただ自分の人生を生きる」ということがどれだけ尊いことであるのか、という次第なのである。なのでたとえ人生が上手くいっていなくても、自分の人生を生きているのであれば胸を張っていいんだよ、というのは声を大にして言ってあげたい。ここでいう「自分の人生」というのは自己実現などという高尚なものではなく、単純に犯罪を犯さないで生きるというようなレベルの話である。自分一人の人生が上手くいかないということは、当人にとっては多大な問題であるのだが、一歩引いた視点からみればそんなに大した問題ではないのだ。だけどそのせいで「自己卑下」をためこんでしまうと、それが回りまわって他人に影響が出て行ってしまう。だが、自己卑下をすることでそれを免罪符に使っている場合もある。自分の人生が上手くいかない状況、自分は義務を果たしていないという時に開き直れない、自分を責めることでバランスを保っている状態。でもこれはやっぱり本当はやめた方がいいんだろうなとは思う。
2022/7/10日
ある手法の開発が苦手を克服するということがある。例えば、数学が苦手だと。しかし、数学とその人との関係性が「苦手」だというのは、絶対的なものではなく、ある手法の開発により数学をコンスタントに勉強できるようになり、苦手ではなくなるということがある。そもそも「苦手」だという形容は関わっている証拠なのである。関りがなければ、「苦手」という形容は生じない。さらに言えば、「苦手」とわざわざ形容する背後には「本当はやりたい」が潜んでいる場合が多い。いずれにしろ、「苦手」はその人にとって何か特別なことであるだろう。そこで一度「やれる」という実感を得たならば、欲望がどぱっと溢れだす。そこで初めて気づく。あぁ自分はこんなにもこれに欲望を抱えていたのかと。逆にいえば、欲望を抱えていることに自分で気付かない。そして人に言う「自分はそれになんて何の欲望もないよ」と。なんという自己欺瞞か。
2022/6/25土
「何を読むべきか」という問いはいつも頭にある。その度に「何を読んでも良い」「何かを読んでいれば良い」「その時に読みたいものを読めばいい」と答えるようにしている。しかし、繰り返しこの問いはやってくる。
欲望と一言で言ってもそこには様々な種類がある。ここではそれを短期的、中期的、長期的と分けて考えてみる。そして読書を例にとって考えてみよう。まず読書における短期的な欲望とは、「今読みたい」ということである。自分は基本的に一日の読書ルーティンを定めている。この時間帯にはこれを読むというのを決めているのだ。しかし、全てにおいてそれをやってしまうと、活力が失われてくる。だが一方でそれを定めなければ、自分がものにしたいと思っている領域に対して、確実性を持てなくなってしまう。これのバランスを取る方法として、定める領域と定めない領域を両方持つのである。この定めない領域において、先ほど述べた「今読みたい」つまり短期的な欲望を大切にするのである。この場合、何を読みたいかと考えすぎてはダメである。まず思いつく本を一冊何でもいいから思い向くままに取る。それを多少繰り返していくと、段々リズムが出てきて次はこれを読もう、次はこれを読もうとなってくる。この方法をとると、短期的な読書欲が適度に満たされ精神衛生的に良い影響をもたらす。全ての読書ルーティンを決めていると、我慢がでてきて、活力が失われてしまう。ただ、「何を読みたいかと考えすぎてはダメ」というのは大事で、元々ルーティンを定めているのもこの余分な思考を減らすためもあるのである。しかし、上にも書いたように、それだけだと活力が失われるので、バランスを取るために、定める領域と定めない領域を持つのである。話を欲望という観点に戻すと、読書において「今この瞬間に読みたい」という気持ち、これが短期的な欲望である。
2022/6/21火
とこしえの
未だ見ぬ都を
おもいつつ
向き合いけるは
足元の泥
闘いの
後に交わせし
その会話
離れたならば
二度と戻らず
過ぎ去った
今の想いに
恋焦がれ
届かぬ怒り
行き場得ず
身体の
崩れるままに
無力さを
突きつけられる
人生哉
また機会があったらはじめさんとボイスチャットしたいです。お互いに話をしていい方向に行くかもしれないですしレオ.icon
なぜかコメント気付くの遅れてしまいました。お気持ちありがたいです。もちろんいつでもウェルカムです。またお話しましょう。👍はじめ.icon
2022/4/18月
理に適ったことをやっていると、処々の方面自然に上手くいくんじゃないかという発想。
「目に見えないアクティブユーザー」
2022/2/25金
昨日の「帰ってきたバチバチやろうず」は皆で哲学をしてる感じで楽しかったなぁ。
2022/2/23水
議論を楽しめる人というのは、相手がずれた解釈や反論をしてきてもそこに対する許容度が高い人なのかもしれない。これは相手の意見に寛容であるということとはまた別の寛容さである。
2/5土
ボイチャ。ジレンマ、数学談義、実践理性批判の話など。
16日
小説を読んでいると固い頭が柔らかくほぐれていく感じがする。肩の力が抜ける感じがする。脳に新しい空気が入る感じがする。
9土
アープラノートを書く余裕が少しできる。
2022/1/8 金
水泳へ。
ボイチャ初め。ほねまつりに参加。
31金
『紅白歌合戦』視聴。個人的なMVPはまふまふであった。
30木
ボイチャ納め。
17金 
水泳へ。
ボイチャへ。二重性を生きる、既存の言葉を使いこなす、感情と言葉のリンク、内面と外面とのギャップなどの話。
14火
いよいよ全集(ヴィトゲンシュタイン)に手を出す。
12日
『遊郭編 第2話』視聴。Aimerの歌もいい。
11土
『ウィトゲンシュタインについて話し合う会』に参加。語りうるもの、語りえないもの、前期から後期への変遷、孤立から関係性へ、操作と基底などの話。
10金
水泳へ。
ボイチャ。人生相談などの話。
8水
『FNS歌謡祭 第2夜』視聴。
5日
『遊郭編 第1話』視聴。
4土
棚卸mtgに参加。ゲーム、師弟関係の話など。
3金
水泳へ。
溜まっていた思考をアープラノートへ開放する喜び。
12/1水
今日から12月。
『FNS歌謡祭 第1夜』視聴。
28日
『無限列車編』第7話最終回視聴。よくぞ最後に『炎』を流してくれた。製作陣の選択に全力で拍手を送りたい。
27土
棚卸mtgに途中参加。その後久しぶりに朝方までボイチャする。
26金
水泳へ。
24水
「仏教哲学を勉強しよう」の会に参加。後半は、カラマーゾフ、宗教、哲学カフェなどの話。
23火
ショーペンハウアー『自殺について』朗読会に参加。
22月
クリティカルシンキング読書会に途中参加。後半は数学の話。
21日
『無限列車編』第6話視聴。
ボイチャへ。note企画の話。
20土
第2回自己紹介カフェ参加。後半は哲学の話。
19金
水泳へ。
『寅ちゃんと6年1組農業部』視聴。
『コードギアス』が面白い。
17水
『クローズアップ現代』瀬戸内寂聴さんの回視聴。罪の意識が深ければ深いほど、利他的になっていったのだろうなと思う。寂聴さんは人から愛された。それは彼女が人を愛したからだ。でも彼女は最も愛すべき人を最も愛すべき時に愛することができなかった。
16火
昨日今日明日の区別がわからなくなってきている。
15月
ボイチャへ。心理学の話など。
14日
『無限列車編』第5話視聴。
11/13土
イアン・ハッキング『数学はなぜ哲学の問題になるか』が届き読み始める。非常な知的興奮を感じる。ここまでの所だが、ハッキングの問題意識が自分の問題意識に近いように感じる。自分が今までおぼろげに感じていたことを、ハッキングが明確に言語化している感じというか。算術と幾何学の捉え方とかカント哲学の捉え方とか。
ずっと自分には算術と幾何学が同じ数学と呼んでいいのかという疑問があるのだが、この問題意識は大事だなと改めて感じた。問題意識を持つことが探究への第一歩だからである。
ボイチャへ。人生相談の話など。
『こころの時代』視聴。詩人伊藤比呂美さんの回。仏教の話などなかなか良かった。詩人として生きてきた矜持を感じた。
12金
水泳へ。
9火
ボイチャへ。前半は企画、後半はカントの話。
8月
永井均『ウィトゲンシュタイン入門』2周目読了。3周目を読み始める。
0:00 LiSA『明け星』MV解禁。  
古文の話。推定伝聞の助動詞「なり」は通常終止形接続だが、ラ変には連体形につく。ラ変の連体形は「る」。「はべりなり」は存在せず、「はべるなり」となる。この場合、伝聞か断定かは意味判断となる。
結局「なり」は伝聞だろうと断定だろうとウ段の音に接続するのだと言い切ってしまいたい所だが、これにはもう少し検討が必要だ。
7日
「コロナ禍で社会や哲学はどう変わったか」の会に参加。
『無限列車編第4話』視聴。
ボイチャ後半。モバイルバッテリー、人生の話。
6土
ボイチャへ。先祖や家系図の話。
5金
水泳へ
映画『ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン外伝』視聴
4木
人とのつながりを感じる日であった。そして新たなつながりの可能性も。
3 水
興味あり。ウィークネスフォビア 非プログラマ的人間がUserScriptを調整するための知識
ボイチャへ。哲学、数学の話。
2 火
第4回倫理学講和読書会に参加。
11/1 月
華厳経についての本を読み始める。
夜、少しボイチャへ。美術、音楽、歴史などの話。
31 日
衆議院選挙投開票の日。
外国語を読む、哲学書を読む、これは読みづらい読書の一例である。読みづらい読書は悪い事だけではない。むしろ読みづらい読書の方が頭に残っているということも多い。
30 土
「自分の罪の意識とずっと向き合っている」
「足るを知る」
今日も『純粋理性批判』が面白い。
29 金
水泳へ。
『ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン特別編集版』を視聴。本当はエンディングテーマ『みちしるべ』を聞くことまで含めて、ヴァイオレット・エヴァ―ガーデンなんだけどな。
ミルクボーイの漫才が面白過ぎる。
28 木
今日は夢を見た。悲しくて切ないけれどいい夢だった。
10/27 水
無限に脅かされる時には一を大切に。
自分は「一」の思想家なのではないか、というインスピレーションがふとよぎる。
「一」は部分も全体も表すことができる。
「分野横断」という言葉があるが、自分としては分野横断という意識はあまりない。というのは分野横断というのは、分野を分けているのを前提とし、それを横断するという言葉であるからだ。自分の中ではそれは元々一つのことなのである。
野球の話。新庄監督が楽しみで仕方がない。
10/26 火
フィンクのエクリ英訳完全版が届く。ハードカバーにして良かったと思う。
夜、倫理学講和読書会。面白かった。「三人寄れば文殊の知恵」とはこのことである。
ボイチャ後半も有意義な時間となった。HSP、他者への憑依、他者との間での自分の保ち方などの話。
10/25 月
あまりにも読みたい本、読むべき本が多すぎて、もう自分の手には負えなくなってきている。こういう時ほど、一行をしっかり読むという原点に立ち戻る。
イアン・ハッキングの『数学はなぜ哲学の問題になるか』を試し読みしたところ、やはり非常に面白い。 
夜少しボイチャへ。文字の書き起こしなど。
本を読むときには、読んだページ数ではなくて、考えた量や感じた量で計るようにしたい。
10/24 日
『無限列車編』第3話視聴。次回は11/7 日曜のようである。全7回である。
throbbing disco catさんの読書メーターをゆっくりと見てみたい。
10/23 土
アープラノートのページをたくさん書いた。
自己紹介カフェに参加。色々な人の話が聞けて面白かった。後半はヴィトゲンシュタイン、仏教などの話。
10/22 金
水泳へ。
水泳へ行く度に生活リズムを少し早めなければとは思っている。
テレビ『よしもと新喜劇NEXT』が面白い。
10/21 木
トシさんの松坂の記事が衝撃的だった。
10/20 水
河合隼雄『心の扉を開く』読了。
夜、ボイチャに入る。テレビ、芸能、ビートたけし、松本人志など。
10/19 火
今日は書籍をけっこう整理した。観念的なものだけど。
「終わらない勉強」をずっとしている。もう到達点などはない。
ハムスターは自分で好んで回転しているのか、もう回転せざるを得なくなっているのか。まぁ似たようなものなのかもしれない。
「ジャニーズのデビュー曲はクオリティが高い」ということをずっと言い続けているのだが、今回もそうだろう。自分が好きか嫌いかはまだわからない。「クオリティが高い」というのは好きということとはまた別なのである。
この社会は「生きようとする意志」を前提として作られている。
アープラノートが4千ページを越えた。次は5千ページに向けた旅路が始まる。
10/18 月
「転移」という概念を知ると、相手から怒りを向けられた時に反応の選択肢が増える。そうすると人間関係がより建設的なものになる可能性が増える。「転移」という概念はこのように有用性がある。ただ有用性があるということと真理であるということは話が別である。
「有用性」ということで割り切ればいい。それも一つの考えである。しかし「転移」という概念が誕生する際には、少なからず真理性が意識はされている。この辺りが話を複雑にしていく。
数学の哲学、確率の哲学、統計の哲学、やはりこの辺りの本は定期的に読みたくなるんだよな。
10/17 日
『無限列車編 第2話』視聴。全部で7話のようだ。
LiSA『明け星/白銀』がフルで公開される。
斎藤佑樹引退試合。
人は不断の「今」という連続の中で、いつも何かをし損ない反省しながら生きている。それでもまたし損なう。それの連続だ。
10/16 土
10/13 水から、ラカン セミネール『精神分析の四基本概念 上巻』を読み始める。非常に面白い。
排他的知性と包含的知性。閉じられた知性と開かれた知性。
10/15 金
水泳休み。
相手が表現しようとしていること(表現していると思っていること)と実際に表現されていること(こちらに伝わっていること)にズレがあることがある。たとえば相手が明らかに攻撃性(怒り)を持って話しているのだが、当の本人がそれに気付いていない場合だ。これは自分の心と向き合っていない人、自分を客観視していない人に多く見られる現象である。ここで気を付けるべきなのは、相手の怒りに対してこちらが反応をする場合である。もし相手が自分が怒っていることを自己認識しているのならば、こちらがその怒りに反応をしたとしても、それが喧嘩になるかもしれないが、相手にも自分も喧嘩に関与しているという意識は残る。しかし、相手が自分の怒りを自己認識していない場合はたちが悪い。相手の怒りに対してこちらが何らかの反応をする。たとえば怒りを持って返す。相手は自分が怒りを表現していると思っていないため、急にこちらが理由もなく怒り出したという認識をすることになる。そうなると相手はこちらを不可解に思い、一方的に怒り出した悪者と認識してしまう。最初に自分の怒りが引き金になっているとは微塵も思わないのである。
つまり、相手が怒っているんだけど自分で気付いていないんだろうなぁという場合には、その怒りを含んだコミュニケーションをしない方がよい。こちらが見るべきは、実際に表現されていることではなく、相手が表現していると思っていることの方に焦点を当てて、コミュニケーションを続ける方がよいのである。これはこちらが大人にならなくてはいけないということでもある。しかし、コミュニケーションで大事なことは、どちらが正しいということではなく、見えている方が気を付けるしかないのである。
知識と知性について。知識はIQで知性はEQともいえるかもしれない。ここでいう知性とは、対話の流れを把握する、相手の感情に配慮する、その上で言語化を行う能力である。いわば〈他者〉(相手のことはもちろん、より広い意味で文脈なども含む。つまり、自分ではないもののことである。)を意識しながら、言語化を行う能力のことを指す。このような能力がない人とは、いくら知識があっても有益な対話・議論はできないだろう。
しかし一方発話をするということは、どこかで必ず単独者にならなければいけない瞬間がある。〈他者〉を意識しつつも最後は単独者にならなくては発話ができない。最後まで〈他者〉がいると、発話することは出来なくなるだろう。つまり、〈他者〉の意識というのは程度問題で、実際上はぎりぎりまで意識するということになる。ぎりぎりまで意識して、最後の最後は単独者になり言葉が生成されるということになるだろう。
この発話と単独者という問題は、政治家の不用意発言や普段の日常会話における「この人ってこちらのこと考えて発言しているのかな」というような感覚などに深く繋がってくる。こちらのことを考えていないというのは、配慮がないという悪い意味だけではなく、こちらのことを傷付けようとか下に置こうとかそういう悪い方の意味も含めて考えていないということなのである。発話の時に単独者になっているということは、そこで発話される内容はその人一人の言語空間から発せられることであり、本来こちらの存在までも含んでいるものではない。だけどここが言葉の厄介な所で、発話した瞬間、単独者的意味を担っているはずの言葉が、こちらのことまでも含んだ言葉に聞こえてしまうのである。つまり、ここには錯覚ということも入ってくる。
しかしこの「こちらのことまでも含んだ言葉に聞こえてしまう」という部分は、言葉によるコミュニケーションを可能にするというポジティブな要素にもなる。
相手に怒りを感じるもしくは、これを言ったら噛みついてくるんだろうなという予想が容易にできる。こういう場合、言語化はしにくくなる。思い浮かぶが言えないというのでなく、そもそも頭の中で言葉が浮かんでこなくなる。こういう相手と対話するのは難しいだろう。
ある対象に面白みを感じ続けるというのは、それだけで既にものすごい才能である。例えば研究者とかであっても、知的能力とかよりもこれが一番重要な要素なのではないか。
ある対象に面白みを感じ続けるというのは、アープラサバイバルにもつながる能力だと思う。
10/14 木
「知を持つが故の怒り」というテーマはこれからも繰り返し出てくるだろう。「ピノキオの鼻から鼻血が出る」という秀逸な比喩とともに。
専門知識を素人にもわかりやすく噛み砕いて教えるという能力は、皆が持っているわけではないのかもしれない。アスペクト盲にも関係している気がする。
怒りの一般形式は「他人に気を向ける」ということかもしれない。
対話の不可能性について。
10/13 水
第2回論文読書会を開催。前回に引き続き非常に面白い時間だった。酸いも甘いも学ぶことが多かった。禅問答を前にして、参加者でう~んと唸っている時間はとてもいい時間だったように思う。
10/12 火
夜少しボイチャ。哲学の話、しりとり裏の話、運営の話など。
運がいい・悪いということについて。
10/11 月
煉獄さんのはその後見れたのでよしとする。結局初回はLiSAの曲は解禁にならなかった。
何よりも良かったのはフジテレビが復旧したことだ。復旧しない可能性が自分の中でよぎっていたので喜びは格別だ。大学時代の心理学の先生の「ラッキーボーイになるには、一度アンラッキーにならなくてはいけない」という言葉を思い出す。ちょうどディスコードでの議論されていることにもつながるが、幸福感って何ぞやと考えさせられる事件であった。フジテレビが映るという今までは何とも思っていなかったことが、非常に喜ばしく感じる。
幸福感なので悪い気はしないのだが、こういう幸福感を自分は求めているのかなと思うと、それは違う気がする。最初からフジテレビがずっと見れていた方がいいに決まっているのだ、という感じがしてしまう。そこに幸福感は生じないのだけれど、それでいいという感じがする。
10/10 日
煉獄さんの雄姿を見ようとしたら、フジテレビだけ映らなくなるというありえないアクシデントが起こる。
謎の多い怪奇現象ですねレオ.icon。
実はある程度原因はわかってて、軽く地震があったんだよね。その放送トラブルがうちだけなのか、その地域一帯がそうだったのかはわからないんだけど。楽しみにしてたので、残念だったね。はじめ.icon
10/9 土
立論しようとする人を立論すらしない人が足を引っ張るという構図は一体何なのかなと思う。理由は簡単だ。批判だけしている方が百倍簡単だからだ。立論するというのは、百倍難しく尊いことだろう。人の批判をするなら、自分の言葉で立論する勇気と力を身に付けてからにしなさい。
立論をするというのは、無限の集合の中から部分解を切り取るようなもので、それ以外の部分があるというのは大前提なのだ。その部分解に対して、それ以外の部分があるというのを批判として加えるのはナンセンスで、それ以外の部分を提示したいならば、自分が別の部分を新たに立論すべきなのだ。例えば哲学カフェはそういう構造になっているから生産的になる。
確かにURL引用(うらる引用)は、情報や知識を共有するのに便利な場合がある。もちろん適度に使う分には何の問題もない。しかしごくごくわずかにだが、それを勘違いして使っている人がいる。ボイチャで自分の主張や反論をするために乱立している人がいる。まさに虎の威をかる狐である。自分で立論をする力や勇気がないのだろう。それをやられると疲れる。こちらは自分の生の声で身体を張って立論しているにもかかわらず、相手は無尽蔵にうらるを引用してくる。引用するだけだから疲れないのだ。そして心も痛まない。
考えも知識も無い者が、噛みついて反論してくる場合の対処法について。一つ明らかなのは、圧倒的な知識量と思考で相手を黙らせようとするのは逆効果だということだ。火に油を注いでしまう。なぜなら向こうに、相手の力量を計る力、自分の立ち位置を自覚する力、それを元に態度をわきまえる力というようなものが欠けているからだ。
一番有効な対処法は、自分で自分の怒りを収めるということだ。
明日はLiSAの新曲と煉獄さんの雄姿を拝める。
クラビスさんの「無意味」についての考察が良かった。その下のとにわさんの言葉も良い。
10/8 金
水泳へ。
思わず映画『今日から俺は』を全部見る。俳優というのはすごい仕事だと改めて思う。
AKBがゲストの番組を見て色々と考える。AKBの場合、衰退は個人の責任ではないし、個人がどうこうできることではないという話だ。
海外ドラマ『スコーピオン』が面白い。
自分の布団へ直行するという寝方が良かった。
10/7 木
つわものどもが夢の跡、という感じだ。
議論が不毛になるのは、それが信念のレベルに還元されてしまうからである。良い議論はお互いに変化できる議論であるということをよく考えるが、これは論理のレベルにとどまっていられるからである。たとえばその場でテキストを読んで、解釈などを議論する場合、その思考はその場で誕生したばかりなので、信念のレベルにまで深まっておらず、論理のレベルでの議論が比較的可能となる。同じ哲学のテキストだとしても、一人で勉強して長い事その考えを保持している場合、それは信念のレベルまで深まっている場合が多い。その場合、そこの部分を議論にかけると不毛な議論になる可能性が高い。よく「お酒の席で、政治と宗教の話はするな」という教訓があるが、これも信念レベルの話なので、喧嘩になる確率が高いということである。ただお互いの信念をぶつけあうだけの議論は議論ですらなく、ただの言い争いと化してしまう。
10/6 水
第1回論文読書会を開催。
10/5 火
第2回倫理学講和読書会に参加。
10/4 月
自分はずっと、自分が考えていることを人に知ってもらいたいという欲求があった気がする。伝わるかどうかは別問題として。
satisficeという英単語(動詞)が面白い。
心理学の一連の考察を書いていると、盲目の比喩を思い出す。目が見えない人が動物の象を触りながら、部分部分を言語で描写していくというものだ。もちろん当人は象だとは知らない。たとえば「ここはごつごつした感じがする」とか「ここはざらざらしている」とか、ある一つの対象を語るのに無限の言語で描写してゆくことになる。それがわかって見えている人同士であれば「象」という一言で済むのだが。自分の場合にも、ある伝えたい観念はシンプルに”一つ”なのである。でもその観念を人に直接見せることができないために、その周辺を言語で無限に描写していく。
このある無限に描写できるものを「象」という一言で表すというモチーフは、カントを思い出す。多様を統合するという話だ。統合には何段階かあるのだが。これが言葉の便利な所でもある。
持つ者、見える者、わかる者の責務があるということか。
10/3 日
ブラケティング入力時にCTRLでアイコン選択に切り替え これは便利だ。
windowsキーとピリオド同時押しで、絵文字も使える。
今日は三島由紀夫の読書会に途中参加し、その後別の会合へ。漫画・アニメ・小説の違い、源氏物語などの日本的モチーフ、ナショナリスティックなキャラクターなどについて話す。想像も一つの創造だなと考える。
三島由紀夫の読書会に参加いただきましてありがとうございますレオ.icon。
レオさん、頑張ってますね。応援してるよー!はじめ.icon
他者との関りにおける躓きの種みたいなものが人それぞれ固有にある。この躓きの種とどう折り合いをつけていくかということがアープラとの付き合い方にも関わってくるだろう。
表現するということはそこに多かれ少なかれ傷付きの種が存在する。でも人は表現したいという欲求を持ってしまう。ジレンマである。ここも折り合いである。
「細く長く」というのは求めすぎないということもある。
心理学についての一連の考察を大分書いている。かなり色々と頭に詰まっていたのだなと自分でも驚く。それでもまだ仕事は残っている。
10/2 土
ボイチャに入る。話題は、理想の人間関係、自分がもう一人いたら親友になれるか、テレパシーと言葉、深い感覚の共有、周回遅れの批判などを話した。
自分がもう一人いたらというのとテレパシーで自分の観念を伝えるというのには共通性があって、それは自分の観念をそのまま共有したいという思いだ。この理想的イメージが少し挫折した方が、人とのコミュニケーションは楽になるかもしれないと考えた。自分がもう一人いたとしても、もしかしたらあまり生産的な会話はできないかもしれないとか、そういうのを実感レベルで感じる必要性。
制限が同時に可能性を生むという考えに興味がある。
はじめまして、こんにちは。『芸術の中動態』という書籍で、制限することによる自由や可能性ということが述べられていたので、よければぜひ。夜詩痕(Yoruuta Ato).icon
夜詩さん、ありがとうございます。なるほど、興味深いですね。ぜひ読んでみたいです。はじめ.icon
10/1 金 
8月7日以来、約2か月ぶりの水泳へ。普段は1週間に1回位のペースで水泳に行く生活をしている。
海外ドラマ『スコーピオン』が面白い。
中国ドラマ『新・白蛇伝』というのをたまに見るのだが、このドラマは仏教的なモチーフが出てくるのがよい。阿弥陀仏のことは、中国語で「オーミードゥーフー」というようだ。
9/30木
「棚上げ」という概念。
9/29水
トランスパーソナル心理学の論文読書会に参加。心理療法の話を繰り広げる。アープラノートに書こうと思っていた話をほとんど口頭でしてしまう。
9/28火
『先鋭化された考察が他者のフィルターを通じて角が取れ、ありふれたものになっていく話』を思いつく。まるで関数のようなのだ。
人間にはなぜこうも格差があるのだろうといつも思う。世俗的なものもそうでないものも含めて。持つ者はさらに持ち、持たない者からはさらに剥奪されていく。
『発話の賞味期限』という話もある。
9/27 月
・『論理哲学論考』を久しぶりに読み直しているのだが、本文の1周目を読み終わり、注を参照しながらの2周目に入っている。
・永井均『ウィトゲンシュタイン入門』も1周目を読み終わり、2周目をゆっくりと読んでいる。
・一人で勉強している分には無形の情報だけで全然構わないのであるが、あ~ぷらのような場所にいると、説明をする機会が多くなるので、有形の情報に対する欲求が湧いてくる。それは解説書を読むことに対する欲求でもある。でも原典としっかりと向き合うということを疎かにしてはならない。(無形の情報と有形の情報 参照)
・あ~ぷらとの関りは「細く長く」が大事だと思っている。「細く長く」という観念には「無理をしない」ということも含まれる。
・ニヒリズムについて。意味のある/ないから抜け出した場においては、「人生にはそもそも意味など無いのだ」という発言すら不可能となる。
・時が止まらずに流れていく。
・『アープラサバイバル論』をよく考える。今の所「イニシエーション期」「初期」「中期」という区分があり、それぞれの時期に特有の躓きの種があるという話だ。
・ボイチャに入る。前半は、企画や哲学の話、後半は、企画やお笑いの話をする。
9/26 日
・『無限列車編』の余韻が残る。
・フランクルの論文読書会に参加。後半は、言葉や人間関係の話をする。
・封印していたLiSAの『炎』を鑑賞する。
9/25 土
・とうとう『無限列車編』を鑑賞してしまった。少し肩の荷が降りた気分だ。
・LiSAの新曲『明の星』『白銀』楽しみ。
9/24 金
・ニヒリズムについて。意味のある/ないという場からそもそも抜け出すという話。
・『正法眼蔵』の西嶋さんは10代の時にこの本に出会い、それ以来60年以上読み続けているというつわもの。
・書きたいことは無限にあるが、時間は限られているというジレンマ。
・先日の話になるが、ブルース・フィンク『エクリを読む』(ラカンの本)を読み終わり、同じフィンクの『ラカン派精神分析入門』の2周目を読み始めている。
・最近、ドイツ語の紙の辞書が欲しくなってきている。ドイツ語の電子辞書は持っているのだが、Fall やTatsachenなど『論考』で出会う単語を紙の辞書でゆっくりじっくりと読みたいからである。
・日記の書き方で考えている部分があるのは、過去の話題に追加を加えたいときに、過去に追加していくのか、新しい日にまた書き込むのかという点である。どちらも一長一短あるのだが、ひとまず実験的に後者の新たに書き込んでいくというスタイルを試してみる。これのメリットは内容面というよりは、時間軸との連関性が強くなるということである。新鮮さやリアルタイム感があるということ。
・「したい」と「すべき」の葛藤の調停の仕方が一向にわからない件について。
・明日はいよいよ『無限列車編』だ。どきどきそわそわする。
・『倫理学講和』の読書会に参加。後半は、批判やコミュニケーションの話をする。
9/23  木 祝
・『鬼滅の刃 柱合会議・蝶屋敷編』を鑑賞。次はいよいよ『無限列車編』である。
・ニヒリズムについての考察を思いつく。そもそも意味の場から離れるという話。
・部分的に良さげに見える解が、全体にとって良い解になるとは限らないという話。
・ギャルの「諦念」について
・鬼界彰夫さんの話。
・『純粋理性批判』を読んでいると心が潤う。
9/22 水
・西嶋和夫『正法眼蔵 禅の道すじ』の3周目を読み終わり、4周目を読み始める。
・久しぶりに朝方までボイチャに入る。前半は、スラングやギャルの特性の話、後半は、人類と地球の話などをする。
2021/9/21 火
『純粋理性批判』の「図式」の話がめちゃくちゃ面白い。
レオ.icon日記デビューおめでとうございます
デビューしてしもーたはじめ.icon