なぜ痛みにこだわるか
ヴィトゲンシュタインは中期から後期にかけて、なぜ「痛み」にこだわるのだろうか。元々『青色本』にもこの例はたくさん出てくるのであるが、『哲学的考察』にもこの例がやはり出てくる。ちなみに『哲学的考察』と『青色本』の間は約3~4年である。これは結論から言うと、「痛み」において、言葉の均質性や対称性が保てなくなるからである。『論理哲学論考』においても言語は「語りうるもの」と「語りえないもの」に区分されているのだが、「語りうるもの」の内部においては、言語の間に区別はなく、一様な均質性をヴィトゲンシュタインは想定している。つまり、ここにおいては、例えば名詞ならば、どの名詞であっても基本的に対称的で互換可能なのである。しかし、実際の言語活動に目をやれば、互換可能でない部分はちらほら存在する。その最たる例が、「痛み」という事象に現れるのである。「私が痛みを感じている」という文における「私」と「彼が痛みを感じている」という文における「彼」は互換可能ではない。「痛み」という現象が「私」に特有なもので、「彼の痛み」を私は感じることが不可能であるという現実があり、これが言語にも反映されて、非対称性が生じる。ここの非対称性を細かく執拗にヴィトゲンシュタインが論じ続けるのである。これは当然と言えば当然のことで、普通の人はこんな所にはつまずかない。しかしここにつまずくのが、ヴィトゲンシュタインたる所以なのである。ここにつまずく理由は色々とあるが、一つの大きな理由が『論考』における均質的で互換可能で一様的な言語観なのである。これに対する強い思い込み(誠に勝手な思い込みなのであるが)が前提にある上で、現実の言語活動に眼を向け始めたときに、自分の言語観が通用しないケースにぶち当たり、ここに強い困惑が生じているのである。この「痛み」の問題が「痛みの振る舞い」の問題につながり、そこで「内面の捨象」というテーマも出てきて、それが「言語ゲーム」へつながっていくのである。「痛みの振る舞い」の問題は、直接「言語ゲーム」へつながっているだろう。 はじめ.icon