しいなずの長文作品まとめ
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目次
2020年
11/03 【繊細さのばらつき、そこから発生する状況への見解】
11/13 【文書きのアンビヴァレンツ】
11/27 【自律神経失調症アンチ】
12/12 『自分軸アンチと自分語り』 inspired by カタ's 【悩みです】
2020年
11/03 【繊細さのばらつき、そこから発生する状況への見解】
#性多様性 チャンネルでシェアしたことを初めとして、僕には最近思うことがある。それは、人間の個性という個体差の中に【(主に精神的な)繊細さのばらつき】があることが、相互理解・差別解消のボトルネックになっているのではないかということだ。 僕たち人間はヒトという種族に該当しながら、主にその高度な脳の形成する自我からどの生物よりも個体差を有しており、それがヒト特有の多様性を形成している。もちろん肌の色や目の色のような外見上の個体差なども確かに多く、そのせいでアメリカなどでは普段から問題が勃発している。しかしここ日本のように単一民族国家とされるリージョンでは、染髪やタトゥーのように人工的な特徴の変化を自発的に行わない限りアメリカなどで俎上に上げられる外見上の個体差、「人種」の違いを意識しない。なぜなら自分たちはお互いに日本人同士だからと確信しているからである(最近は外国人とのハーフやクォーターの人も増え、段々意識するようになってきたかもしれないが、今回話題にしたいのはそこではないので割愛)。強いて言うなら、外見上の個体差で日本人が気にするのは異性間での肉体に現れる個体差だろう。特に10代だと、性別もさることながら自他の外見的特徴や行動特性に美醜・良し悪しを顕著に気にする事が多いように見える。
そしてこうした人種を初めとした外見上の個体差をあまり気にしない日本人は、見えない個体差をもさほど意識しない。いや、そもそも存在しないように長らく思っていた。日本人同士、見た目も同じだから考えることも同じだろうと思ってきたのだろう。しかし今や精神的な個体差、違いこそが意識に浮上し、ジェンダーロール・ジェンダーバイアス、LGBTQ+や発達障害(グレーゾーン含む)などが社会的な問題になってきている。海を隔てた西の隣国が外見上の違いを問題視するのと対照に、此方は主に精神上の違いを問題視しているのだ――無論、彼岸がそれを問題視していない訳ではないが――。
精神的な個体差は、外見上の個体差と違って明確に現れないし、変化が激しい。外見は成長期を過ぎて仕舞えばその変化は緩慢で、人工的に変化をつけようとしても基本的にはあまり大きく変化しない。整形手術も回数を重ねれば結果的に大きく変化はするが、実際には手術後のインターバルを毎回過ごすため一気に変化することはない。しかし精神は肉体の成長期を過ぎても変化するポテンシャルがあり、その精神の持ち主がいた環境・状況が変われば簡単に変化する。ゲームをしている最中、普段は落ち着いた物腰の人が急に暴言を吐くようになるような急激かつ一時的なものから、家庭・職場環境上の長期的なストレスに晒されてやがてはうつ病になるような緩慢かつ長期的なものまである。そして何より、その精神を解釈するのもまた他人の精神である。僕たちは自分のものであれ他人のものであれ、その全貌を把握することは不可能と言って良いほどに困難だ。専門的な心理学の知識ですら、必ず全人類の精神構造を暴ける訳ではない。そしてこれが、人々の団結・協力、果ては相互理解や差別解消の阻害をする。
集団行動というのは、その集団に所属している人間の個体差をいかなる規模であれ一定は無視・許容し、目的達成のために共通点を構築した上で行うものである。その共通点は分かりやすければ分かりやすいほど団結が固くなりやすい。特に「人種」はうってつけの共通点だろう。これは最も顕著で恒久的な共通点である。しかも(ハーフやクォーター故の特徴の薄さ、それによる人種のグループに入れない問題は一旦置いておくが)外見的特徴であるから分かりやすい。実際、日本も戦時には日本人という人種を共通点として強く結束し、集団行動をしていた。
今は違う。人種はもとより、LGBTQ+のように精神的な個体差でのアイデンティティが現れた。このアイデンティティを共通点に結束する人々が増えた。だがそれと同時に、精神的な個体差への気づき・アイデンティティの主張は人々の精神的な断絶を呼んでしまったのではなかろうか。
#性多様性 チャンネルではシェアしなかったが、無論このイラストを好ましいと思ったまま広告に不適切と思わなかった人も居る。そうした人による発言のまとめには、この程度のイラストを受け入れられない女は時代遅れのババアなんだ、というような年齢差別的なコメントがついていた。 無論、若くてもこのイラストを受け入れられない女性はいるだろうし、ババアと揶揄されるような年齢の女性でもこのイラストが受け入れられる人もいるだろう。そういった言葉を投げかける、あるいはそれに同調する人々はこの精神的な個体差をただのジェネレーションギャップと断じてしまっているのだ。無論、ジェネレーションギャップもあるのだろうが、完全にそうとはいえないだろう。違うのだ。そこには精神的な個体差があるのだ。そしてこの精神的な個体差の中に【繊細さのばらつき】が存在することにより、僕たちはゆるやかな断絶と向かっていっているように見える。
同じ年なのになぜ違う意見を持っているのか。同じ女性なのになぜ違う意見を持っているのか。簡単な共通点があるからこそ、そうした些細な違いがつながりを危ういものにしていく。今までフェミという三文字の略称及び蔑称で切り捨てていた、表現への反対を掲げる人間を敵のように見なし、自分たちオタクは違うと言わんばかりに叩いていた。そこに一見して同様に見える表現への反対を味方だと認識していたはずのオタク女性がし始め、ネット上のゾンビ映画めいた戦線は混乱を極める。
僕はこの状態に危惧を覚えている。人種や性別、思想などの共通点で他者を味方・敵、時には第三者と分類することは恐らく人間がこの長い歴史で身につけた原始的な思考なのだろう。しかしそんな分類は、いや、あらゆる他者への分類はこの多様性の時代に於いて互いの混乱と断絶を産むだけではないだろうか。我々は原始的な思考から抜け出し、多様性を真に受け入れ、味方と敵の分類なくしてお互いの存在を認め合えるようにしなければ相互理解や差別解消は不可能ではないだろうか。
さもなければ、いかなる共通点による繋がりも些細な違いでちぎれることで繋がりそのものを信頼することができなくなって『真・女神転生III』のコトワリ(理念)、「ムスビ」のようになってしまうのではなかろうか。あらゆる他者との繋がりを断ち、己だけの完結した世界で己だけを頼りに生きていく、個人主義の極みへと到達してしまうのではなかろうか。そしてあらゆる他者と繋がりを断った我々に、存続の道はあるのだろうか。いや、ないだろう。
11/13 【文書きのアンビヴァレンツ】
私は文章を書くのは好きだ。その気になれば長い文章だって書くことを厭わない。だがしかし、プロットやアウトラインを考えるのはどうも苦手だ。私はとにかく文章をぶっつけ本番で書くことが多い。だからこそ、今私が学生の身分として取りかかっている卒業論文は嫌いだ。いっそぶっつけ本番で書きたいのに──学科の特徴として、英語の論文を書く関係もあるのだろうが──アウトラインを考えねばならない。
1:計画をいくら練ったところで、最終的には自らの手でご破算にしてしまうことが多いから
2:先ほど言ったとおり、発達障害の傾向によって何かを計画することが苦手だから
3:計画を一旦立ててしまうと、故意過失を問わずご破算にしてしまうことが怖くなるから
4:発達障害特有の思いつきと過集中でしかパフォーマンスを発揮できないから
5:まずアウトラインを用意しなければならないほどの大きな文章をなかなか書いたことがないから
などが思いつく。
こう見ると、あんがい自分はぶっつけ本番で書かない文章に対して不安を酷く抱えていることがわかる。最近は滅多に描かないが、絵・イラストにおいても下描きやラフを思い切り無視して最終的には全く違うものを描いたりしている始末だから、計画を立てて行動する自分に信用がおけないということだろう。そりゃあそうだ。例えば会社経営者なら、己の会社経営の方針を出しておいてフレキシブルどころか滅茶苦茶にそれを無視して経営を行えば、結果はともかく株主だの銀行だのの信用を簡単に失うことだろう。そこに信用を置くのは──よほどの天才的な結果を残した場合、という前提があるが──ホリエモンのようなビジネスマンを崇拝するが如く気に入るような人達だろう。
私もサルヴァドール・ダリを一時期崇拝していたことがあるからか、きっと私は“天才になるための天才の振り”をしすぎて自分からの信用をも失うようなムーヴをし続けていたのだろう。そりゃそうだ。天才には天才のやり方があるように、凡人には凡人のやり方があるだろうにミスマッチなやり方をしていたのだ。
もしかしたらぶっつけ本番で文章を書けることは一種の天才的な才能の片鱗かも知れないが、文章というものはただ書ければ良いというものではない。誰かに──最低でも自分に──伝わらなければならない。そのための構成や中身がなければならない。そして長い文章になればなるほど、最後は拡げた風呂敷を丁寧に畳まなければならない。つまり、しっかりとしたまとめで締めなければならない。
ああ、そういえば私はまとめるのが苦手なんだった!くそう、話したいことがリアルタイムで増えてくるが、これ以上話せば確実に収拾がつかなくなる。もしこの話に続きがあったとしたら、それはまた別の機会に。
11/27 【自律神経失調症アンチ】
僕は自律神経が乱れている、自律神経の乱れ、自律神経失調症という言葉が嫌いだ。自律神経というものは神経であるからして、明確に視認できる姿を持たない。そしてその不調は頭痛、動悸、倦怠感といった間接的な形で現れる。この間接的な症状の現れ方が気に入らないと言うのが一つ。僕は気圧の上下で体調を左右される人間なので、こういった症状が現れることにままならなさからくる苛立ちを僅かに覚える。不可視なものに操られている感覚といえば、この心地の悪さも皆に理解してもらえるだろうか。とかく自分の身体というのに、自分の思い通りに動かないだけで理不尽を強く覚える。その理不尽への怒りは何度も体調の悪化する日々を経てある程度は仕方ないと納得し収まってきてはいるが、それでも完全に憤りが消えるわけではない。そもそも、神経が不調をきたしているからと言って分かりにくいシグナルを発信することも気にくわないのだ。そのやり口はまるで自分は動かずに手下だけを指先で動かす悪役のように卑怯だ。
また、【自律】神経という書き方が僕は気にくわない。自律という字は自分を律すると書く。自律神経の乱れが起きているということは、自らを律している神経の調子が悪くなっているということだが、それが自律という字面と共に「お前がしっかりと己を律することができなかったから体調を悪くしているのだ」と責められているように思えるのだ。
先ほども言ったとおり、僕は気圧の上下、すなわち天候によって体調を左右される体質だ。ある日、それへの対処法を模索してネットを検索しているうちに、「気圧痛(※低気圧の時に発症する頭痛)は自律神経の乱れから来ているから、きちんと健康的な生活を送っていれば起きない」というような文章を見かけてしまったのだ。僕は怒った。別に好きで頭が痛くなるような生活も体質もしていないのに、まるで自分が不健康に過ごしているのが悪いと責められているように思えたからだ。例え健康に気を遣ってご飯を食べても運動をしても気圧が低くなればとにかく頭は痛くなり身体がだるくなってしまうというのに。此方からしたら不可抗力の出来事を、本来は克服可能であって今その症状に悩まされているのは己の努力不足から克服していないだけと言われているようで腹が立った。無論、そういう悪意をもってその記事が書かれたわけではあるまいが、僕にはそういう上から目線の説教に聞こえて苛立ちを覚えた。
オチなんてものをこういった愚痴めいた文章に求めてはいけない。
此度も一発書き、お粗末様でした。
12/12 『自分軸アンチと自分語り』 inspired by カタ's 【悩みです】
僕は自分軸という言葉と概念が嫌いだ。
そもそも自分軸とは就活用語で、どんな企業がいいか選ぶにあたって考える、いわゆる自分の判断基準だとか、譲れないところだとかを言う。
しかし、この言葉は自分が一貫した、唯一のものである──もう少し分かりやすく言えば、真の自分がいる──ことが前提だ。
僕はそこが気にくわない。
多面的であることに不寛容で、
付和雷同でいることを否定して、
根拠に乏しい。
今回は自分語りをさせてもらう。それも長文故に長々と、みっともない駄文になると思いながら必要に駆られて書いている。
なので結論から言おう。
僕はこの言葉のせいでアイデンティティ拡散──心理用語なので簡単な言葉に言い換えれば、自分を見失うこと──を起こし、抑うつになるほど追い詰められてしまった、あるいは自分を追い詰めてしまった。そのせいで、僕はこの言葉を嫌うのに十分なくらい恨んでいる。
もともと僕はユングの提唱した概念であるペルソナや、いっとき流行したアドラー心理学などに影響を受け、自分というものを単一的で一貫したものとして考えていなかった。
Twitterのアカウントを切り替えるように、あるいは様々なサービスにそれぞれログインするように、自分というものを多面的なものだと考えていた。
あるいは、その年齢故に凝り固まった価値観で判断しては非論理的な行動に出る人々──老害のようになりたくない一心で、自分を見て確かなものにすることから逃げていたのかもしれない。
就活を今年の夏から始めて──就活の情報自体は確か学校から今年度の前期開始一ヶ月頃の時点で出されていたが、その時は忙しくてそれどころではなかった──オンラインの説明会やイベントを楽だと思って受けていた。
だがそうはいかなかったのが、自己分析である。
分かりやすく単純で、単一的で、一貫した人物としての自己説明を要求する就活の自己分析は、
分かりにくく複雑で、多面的で、矛盾した人物としての僕にとって箸にも棒にもかからないものだった。
無論、人間が複雑なんて僕以外にも言えることではある。
しかし、数がいくら膨大でも因数分解が出来れば単純な数字で表せるように、それをキャラクタライズやレッテル貼りのようにして簡単な風に表す事が不可能なわけではない。
その表現がその人の全てをカヴァーすることは当然できない。アナログをデジタル化するように、どこかで情報のロスが発生する。
僕にとって、自己分析ツールを通して発生する自己情報のロスは大きすぎたのだ。
元から人に褒められたり形容されたりしても自己否定のあまり素直に喜んだり受け取ったりできないタチではある。
かといって自分で自分を形容しようにも、他人の言葉が受け取れないのと同様に無理な話だ。
自己PRは書けず、色んな就活サイトに登録こそすれど自分の名前や住所のような個人情報以外に記入できるものはほとんど無く、ただひたすらに時間だけが過ぎていった。
就活がちっとも出来ないことをきっかけに、抑うつの診断を最初に貰ったのは9月末の頃だった。
ついでに発達障害かどうかも診て貰おうとしたら、ウェブサイトの巧妙な書き方のせいで実はそこまで診られないというところに来てしまった。
とはいえ、抑うつの症状を抑える薬を貰って症状が緩和したので、「治ったから大丈夫」と薬を飲み終わると同時にそこに通うのをたったの二回でやめてしまった。
次は11月、僕のScrapbox上にあるプロフィールにもある日。課題まで手につかなくなった僕は、発達障害の症状が邪魔しているのかと思い、今度こそ発達障害の診察が可能な場所に通い始めた。
ADHD.co.jp(実在するサイトだが、稀にメンテナンスでアクセスできない)のセルフチェック結果のスクショ、症状の具体例を記載したノートを携えて初診を受けた。
しかし、初診の時は発達障害の傾向こそ見られども二次障害と思わしき抑うつが強いため、それを先んじて治療することになった。
“自分の中で様々な症状が絡み合って、自分を見失うほどの困難が起きている”と知ったこの瞬間、僕の自分軸アンチが確定した。
思うに、自分軸なんていうものはないのだと。
それは、撚り糸のように少なくとも2つ以上の要素が絡み合って構成されているものを俯瞰して見たらただの一本の筋のように見えているだけであると。
そして、糸は何度も撚り直される。巻きつける糸が増えることもあれば、どこかが切れたために別の糸を用いることもある。
そうして人生を生きて己という撚り糸を撚り直す末に、我々は己を一本の糸と見られなくなる時がある。
それを受け入れ、己のものだと言い張れるか、他人から寄せ集めたパッチワークのようだとオリジナリティを感じられずに苦しむかなのかもしれない。
だが、自分のものだと思えなくても、その撚り糸を撚る手は己自身だ。撚り糸が緩く未熟でも、自分が撚った糸であることに代わりは無い。