いろは歌の仏教的解釈と現代語訳
code:いろは歌
色は匂へど 散りぬるを
我が世誰ぞ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず
古来、「いろは歌」は、『涅槃経』の、「諸行は無常なり 是れ生滅の法なり 生滅し滅し已りて 寂滅を楽と為す」という、いわゆる「無常偈」の和訳とされています。この説にしたがうならば、その「どこへ」は、「寂滅」なる「楽」の世界へ、ということになります。そこに、当時広まりつつあった浄土教の説く極楽浄土のイメージが重ね合わされていたことは容易に想像のつくことです。 と書かれている。
いろは歌が作られた平安末期にはすでに浄土教の教えが広まっており、「世も末だ」とか「汚れた世界になってしまった」という時代認識、いわゆる末法思想によって煽られた不安感の中で作成されているらしい。 いろは歌にある「うゐ」とは「有為」という仏教用語で、因縁によって起きる一切の事物(サンスカーラ)。転じて「有為の奥山」とは、無常の現世を、どこまでも続く深山に喩えたものである。 (中略)
新義真言宗の祖である覚鑁(1095 - 1144年)はその著『密厳諸秘釈』の中で、いろは歌は『大般涅槃経』にある、以下の「諸行無常」と始まる無常偈の意訳であると説明している。(中略) すなわち、
と、この四句の意をあらわしたものであるとした。
(中略)
小松英雄はこの無常偈といろは歌を結びつける解釈について、「かなりこじつけがましいが、さりとて積極的にそれを否定するだけの根拠があるわけでもない」としながらも、「ただし、こういう結び付けを前提として、さらにその上に論を立てることは危険なので、ひかえておいた方がよい」と述べている。 現代語訳
もちろん現代語訳も定まっていない。以下は一例。
色は美しく照り映えていても
(花は)散ってしまうものである
私たち この世の誰が
永久に変わらないことがあろうか
いろいろなことがある(人生の)深い山を
今日も越えて(いくのだが)
浅い夢など見ることはしない
心を惑わされもしない
「し」を直接過去と考えるか、それとも否定ととらえるかの違い 前者であれば「浅き夢見し」
後者であれば「浅き夢見じ」
+1✨