あーぷらは愚痴を吐いても大丈夫な場所
どうなのか?
参考になりそうなもの
本当にどうするか?
cman.iconそもそも「愚痴を吐いても大丈夫」って何?
自分の世界観にそういう概念が存在して無くてピンとこない
少なくとも大丈夫かどうかは、場所ではなく見る相手に依存するだろう
たしかに久住哲.icon
負担をかけてもいい/後でその分の負担をチャラにできる場合に愚痴を吐く
基本的に愚痴を吐くのは自分の心がすっきりするだけでそれ以上の価値がない
こういう価値観だと「そもそも愚痴を吐くのは相手に利がないのでダメ」と思ってしまう。
「愚痴を吐く(自分の利を取る)代わりに奢る(相手に利のあることをする)」とかならわかるんだけど……
“場”に対して、「愚痴を吐いても大丈夫」と思うことってどういうことだろう?
吐いても大丈夫、という表現は「愚痴を吐いたらだめだ」と思っているから出る表現だと思うが……
許しがあるという感覚?
免罪符的な?
uvoa.iconなんか愚痴に集約しようとしているのがそもそもの間違いな気がするよ。
そりゃ愚痴って言っておけば愚痴を言った人は悪者にできちゃうからね。uvoa.icon
久住哲.icon愚痴でない言動(ネガティブな言葉となって行われる批判など)に対して「愚痴を言うな」と注意するようなことは、人を不当に悪者扱いすることであるとは思う
久住哲.icon「愚痴って言っておけば愚痴を言った人は悪者にできちゃうから」「愚痴に集約しようとしているのがそもそもの間違い」というところの論理が分からないのですがどういうことでしょうか?
愚痴というのは適切なラベリングとしての機能を持たないということです。もちろん愚痴が問題という側面はあっただろうが、愚痴一つで説明はあり得ない。物事の根本理解の妨げになる。臭いものに蓋をして本質を見えなくし、愚痴というラベリングした人の都合が言いように話が進む。ですので↓の久住さんのように議論整理をしていくのを見て安心しています。uvoa.icon 久住哲.iconなるほど.iconゆっくり丁寧に議論していきたいですね(議論するとしたら)
重要である理由:
すべてのネガティブ発言を「愚痴」というひとつの言葉に十把一絡げにまとめてしまうと、否定的な発言の持つ良い側面が失われてしまう