『金閣寺』に描かれる金閣寺の美とは何か
三島由紀夫『金閣寺』は金閣寺放火事件という実在の事件を扱った小説。金閣寺の美に取り憑かれた吃音のある学僧の一人語りだが、特に性愛の場面において彼が掴もうとする人生と目の前の女との間に、まるで人生への渇望の虚しさを告げにきたかように金閣が立ち現れ、女を抱くことができなくなる。何度繰り返しても結果は同じであり、私は次第に金閣を恨むようになった。そうしてあるとき「金閣を焼かなければならぬ」という妄想を抱き、それを実行する。 この小説で、金閣寺の美とは結論として、それは虚無だと語られているように見える。 何故ならその細部の美、その柱、その勾欄、その蔀戸、その板唐戸、その華頭窓、その宝形造の屋蓋、……その法水院、その潮音洞、その究竟頂、その漱清、……その池の投影、その小さな島々、その松、その舟泊りにいたるまでの細部の美を点検すれば、美は細部で終り細部で完結することは決してなく、どの一部にも次の美の予兆が含まれていたからだ。細部の美はそれ自体不安に充たされていた。それは完全を夢みながら完結を知らず、次の美、未知の美へとそそのかされていた。そして予兆は予兆につながり、一つ一つのここには存在しない美の予兆が、いわば金閣の主題をなした。そうした予兆は、虚無の兆だったのである。虚無がこの美の構造だったのだ。そこで美のこれらの細部の未完には、おのずと虚無の予兆が含まれることになり、木割の細い繊細なこの建築は瓔珞が風にふるえるように、虚無の予感に慄えていた。P321〜P322
つまり、金閣寺の構成要素である柱、勾欄、蔀戸などの一要素はそれ自体で完結しておらず、美の観点からは細部は未完成だが、その細部の完全の余地を残した部分が全体として金閣寺の美を形成している。
作品の余白の美についてに似ていると思った。しかし虚無=空白と考えるのは危険であり、多分この虚無という言葉には戦後日本の虚無感、主人公の人生の虚無感が重ね合わされている。