作品の余白の美について
アープラ本部のサロンでミロのヴィーナスやサモトラケのニケなどの古代ギリシャ・ローマ彫刻に腕がないのは何故かという話題があった。
それで、塩ミルクさんが「「現れていないなにか」を見出す余地があること、これが「美」の定義なのかもしれないですね」と書いていて、とても興味深かった。
もちろんこれだけが美の定義だとは言えないだろうけれど、しかし実際、上記の芸術観を提唱した偉人がいる。
明治期に廃仏毀釈への危惧から、当時のお雇い外国人のフェロノサとともに日本の古美術の調査と保護、東京藝術大学の創立、今に続く日本美術院の創設などと、日本美術の分野で多大な貢献をした岡倉天心がそうで、『茶の本』や『東洋の理想』などの代表的な著作が残されている。そして、その『茶の本』にそれが書かれている。
『茶の本』は、老荘思想や禅などの東洋の思想が多分に反映されている本だが(だから上記は東洋の芸術観なのかもしれない)、岡倉天心によると、老子の思想に有名な「虚」のたとえがある。
老子によると、「真に本質的なものは虚のうちにしかない」のであり、例えば部屋というものの本質は屋根や置かれた家具などにはなく、空っぽの空間にある。同様に、水差しの本質も形態や材質ではなく空っぽの空間にある。
虚はすべてを容れるが故に万能であり、虚においてのみ運動が可能になるのだ。自分をからっぽにして自由に他人が出入りできるようにすることをこころえた者は、どんな状況でも自由にコントロールすることができるようになるだろう。全体こそは常に部分を支配するのだ。──『新訳 茶の本 ビギナーズ 日本の思想』
例えば、柔道は自分の力だけではなく相手の力を利用して投げ飛ばす。これは、虚によって相手の力を利用して最後に勝利するというものだ。
天心はこの虚の思想を芸術に適用している。それは暗示の効用として現れる。
作品のうちのなんらかを表現せず、空白のまま残しておくことによって、鑑賞者はその空白を自分流に補い、最終的に作品内容を仕上げる機会を与えられるのであり、偉大な傑作は、このようにして鑑賞者の注意をひきつけ、ついには、鑑賞者は自分が作品の一部になってしまったように思われてくるのである。つまり、ここでは、虚は、鑑賞者を導き入れ、その美的感情を思う存分に発揮させる場となるのである。
また、天心は制作者と鑑賞者のコミュニケーションを重視していたようだ。比較文学者の大久保喬樹は天心の芸術観の一つを次のように要約している。
芸術の真の意義とは、作品を媒介として、芸術家と鑑賞者が共感し、コミュニケーションをとることにある、そのためには、双方が謙虚に相手を思いやる、具体的には、制作者は一方的、全面的に自己表現を押し付けるのではなく、余白なり暗示なりという工夫を用いて、鑑賞者が感情移入できるような余地を与え、鑑賞者の方は、やはり自分の勝手な思い込みや見方を排して、できるかぎり制作者の意図に近づくよう努めることが肝要だというのである。
芸術の真の意義は、こうした制作者と鑑賞者の相互関係にある。だからこそ、傑作は制作者の自己満足で作品が完結するのではなく、鑑賞者のために解釈の余地を与えるべく、余白を残しているものだと天心は考えていたらしい。
これを天心は以下の表現で書いている。書きぬき。
傑作というものは、それに共鳴すると、一個の生きた存在となり、まるで仲間同士のような絆で自分に結ばれていると感じられるようになるものだ。 (中略) 巨匠たちと私たちの間にかわされるこのようなひそかな交感があればこそ、詩や物語でも私たちはその主人公たちと共に苦しみ、共に喜ぶことができるのである。
東洋の美術には余白を用いた作例がいくつかある。天心はそれらを通じてこのような芸術観に至ったに違いないが、一例を挙げると、日本絵画において余白の効果を存分に用いた代表的な絵師に狩野探幽がいる。
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狩野探幽 - 四季花鳥図(雪中梅竹鳥図)名古屋城障壁画(上洛殿三之間)|File:Arbre de bambou et prune dans la neige par Kanō Tannyū.jpgFile:Arbre de bambou et prune dans la neige par Kanō Tannyū.jpg|Wikimedia Commons
この絵は、右側に大きく巨木が描かれ、左には小鳥が飛んでいるのが描かれているだけであり、大きな余白がある。