『能とは何か』での能
洗練
人間のあらゆる動作(歩く。走る。漕ぐ。押す。引く。馬に乗る。物を投げる。鉄鎚を振る。掴み合う。斬り合う。撃ち合う……)のひとつひとつが繰り返し繰り返し洗練されてくると能に近づいてくる 能のあらわれは、剣術や弓の達人、スポーツマンの動作における全身の均衡や充実感、緊張感、無限の高速度をもった霊的リズムが変化して推移していくことと同じ根を持っている
人間の身体のこなしと、心理状態の中から一切のイヤ味を抜いたものが「能」である。そのイヤ味は、或る事を繰返し鍛錬することによって抜き得るので、各例は明かにこれを裏書している すべての生きた芸術、技術、修養の行き止まり
洗練された生命の表現そのもの
その洗練された生命の表現によって、仮面と装束とを舞わせる舞台芸術を「能」と名付けて、鑑賞している 能という獣について
右に就いて私の師匠である喜多六平太氏は、筆者にコンナ話をした事がある。 「熊(漢音ゆう)の一種で能(のう)という獣が居るそうです。この獣はソックリ熊の形でありながら、四ツの手足が無い。だから能の字の下に列火が無いのであるが、その癖に物の真似がトテモ上手で世界中に有とあらゆるものの真似をするというのです。『能』というものは人間が形にあらわしてする物真似の無調法さや見っともなさを出来るだけ避けて、その心のキレイさと品よさで、すべてを現わそうとするもので、その能という獣の行き方と、おんなじ行き方だというので能と名付けたと云います。成る程、考えてみると手や足で動作の真似をしたり、眼や口の表情で感情をあらわしたり、背景で場面を見せたりするのは、技巧としては末の末ですからね」 「能」という名前の由来、もしくは「能」の神髄に関する説明で、これ位穿った要領を得た話はない。東洋哲学式に徹底していると思う。
無意味の舞と、謡と、囃子との世界
能の各種の表現には、説明も及ばない全然無意味、不合理、もしくは不調和と見えるものが決して少なくない 何等の感激もないところに足拍子を踏む。美しい風景をあらわす場合に、観客に背中を向けて歩くという最も舞台効果の弱い表現をする。最も感澱の深かるべきところを、一直線に通過する。そうかと思うと、格別大した意味のないところで技巧を凝らすなぞいう例がザラに在る
その無意味な変化は、全体の気分の上から出て来たものであったり、又は不合理、不調和に見えたものは、表現の裏の無表現でもって全体の緊張味を裏書きしたものであったりする事が折りに触れて理解されて来る。そうしてその無意味、もしくは不調和な表現ほど能らしい、高潮した表現に見えて来るので、能はここまで洗練されたものかと、屡々歎息させられる。
例えば、ただ蜜を求めて飛び回っている蝶の舞う姿は美しいが、「蝶は無意識に舞っている」
蝶の舞は、進化の道程を経て、あの姿にまで洗練されて来たものである 同様にその飛びまわりつつ描く直線曲線が、全然無意味なままに相似ていて、バッタの一足飛びや、トンボの飛行機式なんぞとは比べものにならない程、美的なリズムに満ち満ちているところを見ると、蝶には他の翅虫たちよりも遥かに勝れた美意識があるように見える。そうしてその美意識によって春の野の花に調和し、春の日の麗らかさを高潮さすべく最もふさわしい舞い姿にまで、代を重ねて洗練されて来たのが、あの蝶の舞い型であると考えられる。 蝶の舞いぶり、鳥の唄いぶりが、人間のそれと比べて甚しく無意味であるだけそれだけ、春の日の心と調和し、且つその心を高潮させて行くものである事は皆人の直感するところであろう。
能における無意味の舞、謡、囃子は、これら無意味に洗練された自然の世界に近い
人間はあらゆるものに対して意味を求めることが多い。人間の世界は有意味の世界
能はこの有意味ずくめの世界から人間を誘い出して、その無意味な笛の舞によって陶酔へ導く
人間の世界は有意味の世界である。大自然の無意味に対して、人間はする事なす事有意味でなければ承知しない。芸術でも、宗教でも、道徳でも、スポーツでも、遊戯でも、戦争でも、犯罪でも何でも......。
能はこの有意味ずくめの世界から人間を誘い出して、無意味の舞と、謡と、囃子との世界の陶酔へ導くべく一切が出来上っている。そうしてその一曲の中でも一番無意味な笛の舞というものが、いつも最高の意味を持つ事になっている。