『老子道徳経』の中の儒家批判
(※以下の引用は全て岩波文庫版による)。
まず一例として、第五章「天地は仁ならず、万物を以て芻狗と為す。聖人は仁ならず、百姓を以て芻狗と為す。」(【現代語訳】[" 天地には仁愛などはない。万物をわらの犬として扱う。聖人には仁愛などはない。人民をわらの犬として扱う。)がある。
これは「無為自然に感情の入り込む余地はない」という意味なようで、後半の「聖人は仁ならず」は明らかに儒家の掲げる聖人観や仁徳を否定する意図が窺える。 他にも、第十七章「太上は、下、之有るを知るのみ。其の次は之を親しみ誉む。其の次は之を畏る。其の次は之を侮る。」(【現代語訳】「最高の支配者は、人民はその存在を知っているだけである。その次の支配者は、人民は親しんで誉めたたえる。その次の支配者は、人民は畏れる。その次の支配者は、人民は馬鹿にする。」がある。
冒頭の「太上」は無為自然の老子的聖人のことで、儒家的な仁君はその次に置かれている。
次に二十章「学を絶たば憂い無し。」(【現代語訳】「学ぶことをやめれば、憂いがなくなる。」の比較的有名な部分。
ここの「学」には知識の習得の他に、礼儀作法を身につけることや徳育なども含まれ、これは儒家が尊重したものであり、半ばこれを否定するかのように見える。
第四十八章の冒頭には「学を為す者は日に益し、道を為す者は日に損す。」(【現代語訳】学問を修める者は日々にいろいろな知識が増えていくが、道を修める者は日々にいろいろな欲望が減っていく。とある。
「学」の対象が限定されているわけではないが、儒家が尊重する経典や士の教養とされる礼・楽・射・御・書・数の六芸などが想定されると解説にはあり、対比されていることから道家との考え方の違いを表したものと言える。