『灯台へ』読書会ノート2
『灯台へ』のリアリズム、語り手について
Look within and life, it seems, is very far from being "like this". Examine for a moment an ordinary mind on an ordinary day. The mind receives a myriad impressions - trivial, fantastic, evanescent, or engraved with the sharpness or steel. From all sides they come, an incessant shower of innumerable atoms.
人の心の内側をのぞいてみれば,人生とは 「 このよう」であることからはほ ど 遠 い と い う こ と が わ か る と ウ ル フは 言 っ て い る 。 人 の 心 は 無 数 の 印 象 を 受 けている。それは普通の日の普通の心を探ってみればわかるとウルフは主張し、 さらに作家の本来あるべき姿を論じている。
Life is not a series of gig lamps symmetrically arranged; life is a luminous halo, a semitransparent envelope surrounding us from the beginning of consciousness to the end. Is it not the task of the novelist to convey this varying, this unknown and uncircumscribed spirit, whatever aberration or complexity it may display, with as little mixture of the alien and external as possible? "
人の生は,輪郭の明確でない輝く量のようなものであり、意識の初めから終 りまで,人を包む半透明の外皮のようなものでもある。そのような変化しやすい , 制 限 を う け な い 心 を 伝 え る の が 作 家 の 仕 事 な の だ と ウ ル フは 言 っ て い る 。 彼 女 は , こ の よ う な 姿 勢 で小 説 を 書 く と 明 言 し, 実 践 す る の で あ る 。 そ れ に しても,古典的な小説技法では 「人の生」の本来の姿はとらえられないと言いな がら、イギリス小説の伝統を否定するようなことは避け,自分より 一世代前の 作家たちを攻撃 するところにウル フの慎重さが表われ ている。
ウルフは,登場人物の心の動きを追い,活字に定着させることによって,現 代 小 説 に お け る リ ア リ ズ ム を 確 立 し よ う と す る の であ る が 、 彼 女 の 世 代 よ り 前の作家たちも小説におけるリアリズムをおろそかにしていたわけではない。しかし,彼らの関心の的は、ウルフの指摘にもあるように,外側のリアリズム, す な わ ち 人物 の 外 面 的 な もの を い か に 現 実 ら し く描 くか で あ っ て, ウ ル フの 目差 し た も の とは 異 な る 。 ウ ル フ の 試 み た も の は , 人 物 の 意 識 の 内 側 を の ぞ き 見 て,それをていねいに描き出 すことによ って実現させようという,いわば内面の リ ア リ ズ ム と で も呼 ぶ べ き も の で あ る。
ミッチェル・リースカは,一般に小説の視点には 三つあ って、その第 一は「 全 て を 知 っ て い る 語 り 手 」 (“ t h e o m n i s c i e n t n a r r a t o r ” ) の , 第 二 は 「 一 人 称の観察者」で“ a first-person observer”) の,そして第三は「三人称の語り手」(“athird-personnarrator”) の視点だと述べているが,これに異論は ない。20世紀前半の小説の多くは,これら三つの視点のうち,第 二,第 三の視 点に比重がおかれ、第 一の視点は,使われてはいるが,19世紀の小説と比べると,多用されなくな っているのではないか。しかし,第 一の視点が全く使われ ていない小説は,書簡体とか日記体などの特殊な形式の作品以外 では ありえない。それに,ただ一つの視点から描かれる小説もきわめて少数であろう。『燈 台へ』も,第三の視点が主に用いられても,第 一の視点から描かれている部分はある。この小説は,「全てを知っている語り手=作家」の視点と,「三人称の 語り手」の視点から描かれた小説である。リ ースカも指摘していることだが,場面によっては二つの視点の移動が明確でないところもある。しかし、例え は,次のような場面では視点の移動は明らかである。
He turned and saw her. Ah! She was lovely, lovelier now than ever he thought. But he could not speak to her. He could not interrupt her. 13)
これはラムゼイ氏が夫人を見てその美しさを改めて認識する場面であるが、 最初の文章は 「全てを知っている語り手」の視点に よるものであり,二番目以下の文章は,「三人称の語り手」の視点によるものである。 一般に小説におけ る 「全てを知っている語り手」の視点は,風景描写や人物描写 (性別,年齢,容貌とい った外面的事実)など客観的事実を読者に伝えるのに用いられる(古 典的な小説にはこの種の描写が多い)のだが, 『燈台へ』では,人物の意識の流 れに入るきっかけ、もしくは,次の意識の流れ(同 一人物の)につなぐものとし て 機 能 し て い る の で あ る 。 あ く ま で も 「 三人 称 の 語 り 手 」 の 視 点 が 主 な の で あ る 。 ま ず 簡 潔 な 文 章 で 人 物 の 動 き や そ の 場 の 状 況 な ど を 伝 え て お い て, 次 の 人物の意識の内側の言葉や実際に口から発せられた言葉で,その人物の視線がどこに向けられているかを示す。同時に人物の意識の流れ(場合によっては、 引用符のついた台詞)を追い始め,読者に提示してゆくという手順である。
【10/8 VCメモ】
距離の力(小説内での言及 三部9章11章など)
距離によってものの見方が変わる
リリー、キャム、ジェイムズの体験
別荘⇔灯台 距離
ジェイムズ 灯台への距離
ポール⇔ミセリ(結婚→結婚後)
リリー⇔ラムジー夫人
近景 遠景
時間と空間の距離概念
第三部 別荘組 灯台組 バラバラ
なぜ両方描いているか?
バラバラでも一つになる
「ひとつになる」のあり方
集まることでひとつになるというより、集まっていなくてひとつになる(喪失した不在の人物を中心として)
時
時の力によってボコボコにされる
置き去りにされたものを書く
シェイクスピア 時 冬物語
神話的
長い時
『灯台へ』は小説の書き方としては、あまりない。なかなかドラスティック
日本
中空構造
つくよみ
何もしないことによって中心を為している
天皇
中心が無という構造が灯台へに似ている
無→ラムジー夫人
登場人物誰が好きか嫌いか?
今までの文学(ウルフ当時の文学)で置き去りにされていたものを書きたかったのでは?
・複数の人間の意識(内面)
・亡くなった人間(喪失を複数の人間の内面によってつなげる)
観察眼
時間
『灯台へ』1日→10年→1年
『ダロウェイ夫人』も一日の話
『波』も日の出から日の入りまで
第二部 神話的 時間の逆行? 悠久
舞台の現実の時間
鑑賞者の心理的時間
作家、音楽家映画舞台などなど芸術家は鑑賞者の時間感覚を変容させ陶酔させるような→仕掛け
『灯台へ』でもそのようなことをしている
抜けがあると思うが勘弁
灯台→光→あらゆる人間に光を照らす
ヨーロッパにおける灯台の役割
灯台へ ダロウェイ夫人 波 短い時間
オーランドー、歳月へ 長い時間
不在
不在を書く
言葉で表現しようがあるか?
ことばはなにも要らなかった。なにも出てこなかった。ただ幸福の薄もやが〜
言葉は充満
矛盾しながら書く
廃墟
ないものを書く
ウルフ『灯台へ』は言葉の問題を扱っている。そこに言葉は充満しているがそれが語ろうとしているのは不在や沈黙で、そしてその不在や沈黙の豊潤さを語ろうとしている。それは大変なことなのだが、それを書こうとする挑戦をしている。
沈黙のアプローチ/女性
ラムジー夫人
夫に喋らないこと
p233
リリー
絵画
ミンタ
ラムジー夫に対して
男性たちのことばの不毛さ
フランス語 秩序 p169
ラムジー夫人 英語でなくフランス語を使う
言語と音楽
詩 音楽
終盤ラムジー夫人の中で会話が音楽化している
ラムジー夫人とカーマイケルとのつながりは、そこの言葉の意味というよりは音素
カーマイケルは、三部でリリーと言葉なしで繋がれるが、不思議な存在である
三部はエモい
p361
言葉の限界について
p36
p53
p197 何も言う必要はないし、何も言うこともできない
p208 詩 自然な言葉
p233
p345
p376 何かになる以前のもの
アンブロシアさんのコメントを読んで思ったのは、この小説は「言葉は自分の感じていることをありのままに表してくれない」ような感情がいくつか出てくるんですね。
1部17章
ラムジー夫人「ことばは何もいらなかった。なにもでてこなかった」
3部5章
リリー「言葉で思いを伝えることはできない。狙った的を外してしまう」
のようなくだりがあります。
またラムジー夫人は夫への愛を言葉で伝えずに沈黙によって返す場面があります。
言葉への不信感と言ってもいいですかね。ここで言う"言葉"というのがどういった言葉なのかが重要なのですが...少なくとも女性陣には、言葉への不信が垣間見られます。このあたりは、男性が取り扱ってきた"言葉"に対する不信感という見方もできるかもしれません。
おそらくウルフ自身にそういう意識があって、彼女が言葉を取り扱いながら、言葉によってとりこぼしてしまう部分についてずっと考えてたんじゃないかという気がしますね。それは既存の文学による言葉もそうだろうし、彼女自身の文学の言葉もそうなんだろうと思います。
僕が素晴らしいと思うのは、そういった言葉には取りこぼしてしまう部分があるけれどもそれでもそこを書けるんではないかという挑戦、つまり矛盾しながらも書き続けたということですね。『灯台へ』はそういった挑戦が垣間見られます。
その挑戦のひとつとして、言葉を充満させながら不在や沈黙について書いているということがあります。不在や沈黙はもちろん不在と沈黙なので、何も語らないんです。しかし、ウルフは言葉を書き続けることで何も語らないものを語ることに成功しています。
【10/23 VCメモ】
最後
ラムジーがジェイムズを褒める
キャムの視線
二人を見ている、第三者の視点(を見ている俯瞰視点)
このようにその状況をそれぞれの人がその眼からみる複数の人間の視点が描かれている
複数の視点というのは、複数のカメラで、映画に近いところがある
目が母性
目の中に入れる
17章
大きな作品
時間を置いて読んだ方がいい
挑戦
ダロウェイ夫人より進化している
考え方を推し進めている
言わないほうが力がある
無が有
この辺の意見に近い話は読書会の中でもあった。
ーーこの短篇集の中で、敢えてはじめてウルフを読む人へのおすすめを選ぶとするとどれでしょう?
西崎 今選ぶとすると「サーチライト」と「青と緑」かな。「サーチライト」がいいなと思うのは、遠くから望遠鏡を覗いて見るという要素があって、ウルフの文章ってちょっと引いた画面が多いというか、遠景としかいいようがないところがある。精神的なバランスを崩した人にそんなことできるのかっていうと、それも謎で。そういう傾向がある人の文章って普通はもっと対象までの距離が近い印象になる気がするんだけれど。でもウルフは違いますね。その違い......たぶん知的な能力なのかな。恐るべき能力だと思う。それがやっぱり他の人との差を生んでいるんじゃないかと。異常な鋭敏さ、恐るべき鋭敏さで捉えていたのかな。だから万人におすすめできる短編はないかな......。ストーリーもプロットもないし、シチュエーションがあるだけ。この中の登場人物=ヴァージニア・ウルフでいいのかっていうのもある。感情移入とか共感は求めていない。多くの現代文学は感情移入も共感も求めていないので、それもウルフあたりから始まっているのかもしれません。
観察についての鋭敏さというかね。徹底的な内省により精神的なバランスを崩しているわけでもない。近景と遠景のバランスについては、『灯台へ』でもモチーフになってるぽい。
あとまあこの辺も
仕組みが捉えきれないというか、ちょっとドラスティックにやってんじゃないかって意見もあった
ーー作品を訳す前と後で、ウルフに対する印象というのは変わりましたか。
西崎 よくわからないんですよ。語学的にとにかく正確な解釈を心がけて、かつ自分の考えるウルフ的小説観に沿って文章は紡ぐんだけれども、ウルフが考えていたこと、書こうとしたことにどれくらい近いのかは正直言ってわからない。ただリズム、音感とか。韻文的な修辞は使わないんだけれど、やっぱりすごく......美しいって言葉じゃないんだよね、緊密さがある。あとはやっぱり、自殺してほしくなかった。体力はなかったかもしれないけど、書くことに執着はすごくあっただろうし。どこまで行ったのかなって思う。普通の作家は三つ四つ読んでいくと作る仕組みが見えるけれど、ヴァージニア・ウルフはそれが見えなかった。『ダロウェイ夫人』や『灯台へ』も型ではない。視点はあるんだけど、でもその視点の置き方には、書き手を隠すようなところがあって、本体は不可視で、いつまでたっても見えなくて捉えきれない。
ーーそういうふうに捉えきれないからこそ、多くの人がウルフの作品を不思議がっていて、現在まで読みつがれているのかな、と思います。
西崎 パラフレーズできたり、結末があるものだと、読んだあとみんな忘れちゃいますね。その意味ではウルフは閉じていないから、忘れない。ずっとこだわりつづけるという。あと一種のミニマリズムなのかなっていう感じがする。とても複雑なことを書いている印象があると同時に、ものすごく簡素なことを同じペースでずっと書いているようにも見える。