『死せる魂』
ゴーゴリの長編小説
著者自信は、叙事詩(ポエーマ)と呼んでいる。
テーマは、プーシキンから貰った。
ゴーゴリがアー・エス・プーシキンと親しく相識ったのは1831年の春である。プーシキンは32歳、すでに当代ロシア最高の詩人、ゴーゴリはウクライナの田舎から首都へ出てきて間のない、まだ22歳の文学青年であった。その年の秋、ゴーゴリは最初の短編集『ディカーニカ近郷夜話』第一部を、翌32年にその第二部を、そして35年には著作集『アラベスキ』、『ミルゴロド』を出し、作家としての地歩をかためて行った。この間、ゴーゴリは終始プーシキンを文学の師としてあおぎ、プーシキンもまたゴーゴリのユーモア、諷刺を描く作家としての才能を評価し、しばしば助言し、教え導いていた。
35年の中頃だろう、ある日、ゴーゴリはプーシキンを訪ね、その意見を聞くため、
岩波文庫下巻の横田瑞穂による解説(p247~)より
ロシア語では「死せる魂」とも「死せる農奴」とも読めるそうな(ダブルミーニング)
舞台は、1830年代初頭のロシア帝国。
全三部の予定だった。ダンテに倣って、地獄篇、煉獄篇、天国篇とせんとする試みだったのである。
第一部は完成、第二部は原稿の大部分を作者が燃やした。
第二部で果たされなかった課題を、ツルゲーネフ、ゴンチャロフ、ドストエフスキーら後のロシアの作家が受け継ぐことになった。