『存在の耐えられない軽さ』メモ(😖)
ページは集英社文庫版
時間的に先行して終結を提示すること。時間芸術である音楽にはできない方法。
モチーフの自然な出現のさせ方。ニューヨークのシーンなど。
テレザを受け入れることでトマーシュの人生に重みが生じた?
手。身体描写。p70の鼻は一見わかりにくい。
たびたびでてくる「霧」の意味。五里霧中なんて言葉もあるが作中では否定的なものではない?
トマーシュはテレザの夢をコントロールできた。p21
愛し合った後、安らかに眠ることができる→心と身体の安定?
p21トリック。何か物をつかませる。とくに本。→カレーニン。カレーニンとの愛の方がよりよいものだ、と第Ⅶ部p372のテレザ。カレーニンはすべての書物のメタファーである。
ボルヘスじみてきた。
p81,82 寓意。リヒターとの違い。
そこには建設中の製鉄所が描かれていた。サビナが学校が厳格なリアリズムを要求した時代(非リアリズムの芸術は当時社会主義の破壊とみなされていた)に描いたもので、彼女はちょっとくじを引くような気持ちで、教授以上に正確であろうと努めて、その絵を刷毛の跡すら分からないようにカラー写真に似せて描いた。
「この絵を私はだめにしちゃったの。赤い絵具をポトンとたらしちゃってね。最初とても不幸だったの、でもそのしみが裂け目のように見えて、気に入り始めたわ。工事現場が本当の工事現場のようではなくなって、工事現場が描かれたひびの入った舞台装飾みたいになって、それでその裂け目をいたずらしてみようと思って、それをひろげて、その後ろに何が見えるか考えたの。そんなわけで、『舞台の奥』っていう自分の最初の連作を描いたのよ。誰にも見せるわけにはいかなかったわ。そうしたら学校からほうり出されちゃうもの。いつでも前面は完璧にリアリズムの世界、そして、その後ろに、まるで破れたキャンパスのデコレーションの後ろに、何か他のもの、秘密に満ちたものとか、抽象的なものとかが見えるのよ」
ちょっと黙ってから、さらに付け加えた。「前景は分かりやすい嘘、そして、バックは分かりにくい真実」
(略)サビナの絵は昔のも今のもどれもこれも、二重露出の写真のように、二つのテーマ、二つの世界の現在での出会いについて物語っている(略)
二部、断章20より
トマーシュ……二つの世界の邂逅。二重露出。(p32)
テレザ……心と身体の二重性の暴露。(p53)
サビナ……
トマーシュはテレザの
テレザの母にとっての裸になるという行為とサビナとテレザにとってのそれの対比もおもしろいですね。
第Ⅱ部断章7、
彼女の行為は自分の美しさと若さを投げ捨てる一つの激しい身ぶり以外の何物でもない。(略)徹底的に恥ずかしさと関係を断つことによって、人生華々しい一線を引き、自分が過大評価した若さとか美しさというものが実際には何らの価値もないと叫びたがっているようであった。
第Ⅱ部断章22
サビナはローブを脱ぎ捨てる決心をするのにある程度の時間が必要であった。自分の陥った状況は考えていたよりやはりいささか困難なものであった。
「脱いで!」(略)それは命令であり、彼女はそのことばをきくだけでいつも興奮を感じた。(略)その美しい服従が彼女を陶酔させた。
サビナのほうも、(略)状況からくる特別な魅力に、身をゆだねていたように私には思える。
母には見られるという行為に対する感心がなく、何の感動もない。恥ずかしさというものを自ら捨てている。一方サビナとテレザはそのシチュエーションの奇妙さもあって互いに見て見られることに困惑し、同時に魅力を感じている。
愛を測り、調べ、明らかにし、救うために発する問いはすべて、愛を急に終わらせるかもしれない。もしかしたら、われわれは愛されたい、すなわち、なんらの要求なしに相手に接し、ただその人がいてほしいと望むかわりに、その相手から何かを(愛を)望むゆえに、愛することができないのであろう。
第Ⅶ部・断章4
「軽さと重さ」という対と「心と身体」という対の関係
めまい
永遠回帰、永劫回帰
パルメニデス
トマーシュとテレザ。必然と偶然。松枝と本多。(豊饒の海)
精神固有の形態は、かくてすでに十九世紀末に崩壊し、ふたたびギリシア時代が再現して、肉体と精神の親密さが取り戻されたかのようであった。しかし根本的なちがいは、ギリシアの精神が美しい肉体から羽搏き飛立ったのに引きかえて、二十世紀では、精神がおそれおののいて、肉体の中へ逃げ込んだのである。
三島由紀夫『小説家の休暇』
最初にシモンがどもったとおもったトマーシュ
言葉が出ないことは、心が身体から出ないこと。
フランツとテレザの共通性と違い。
間違いとしての美しさ。p129
p159 幸福だったことが思い返されるとき、不幸から見上げた墓地の平和と心地良さではなく幸福から見下ろした墓地の空虚さと不気味さがわかる。
p117,118の音楽批判はサビナ自身にもあてはまる。彼女は裏切りを覆い隠すためさらに裏切る。「悪循環」。
ピエール・クロソウスキーに『ニーチェと悪循環』という論考がある(裏の説明には「反-論述」と書いてある。意味はまだ不明)。読んでみたいと思う本の一つ。読んでいるところ。引用されている手紙の中に「おそるべき重荷」という言葉がでてきた。また存軽とは別に(別じゃないかもしれないが)おもしろい。興味をもって読めるということ。
p139 そういえば「カルバン派(カルヴァン)」の考えは重みなのか軽みなのか。重みのような気もするが。
城という城が職業訓練所、老人ホーム、牛小屋などに変えられていくのは、カフカ『城』の教室がKとフリーダたちの自宅になることを思い出させる。(城(カフカ))
p140 「美とは何かね?」フランツはこう問いかけるが、サビナが前のページで指している美とはあきらかに「時間」かそれに類するものである。フランツは彼の日常の仕事が美を体現していることに気づかず、「大行進」が歴史、時間の積み重ねを乗り越えなぎ倒していくことに美(快感、恍惚)を覚える。サビナは生活の中で山高帽くらいしか歴史や時間を所持しているという実感をもつことができない。サビナはフランツの日常性に惹かれたはずなのに、フランツはサビナの刹那性に惹かれている。トマーシュとテレザもそれぞれの異なった特性に惹かれ合ったが、それゆえに愛があった。フランツとサビナは対照的にそれゆえに破局した。
たった一つのものを捨てるのとたくさんのものを諦めることはそれぞれ異なっている。
対の芸術。バルトークなど。
p112 『はてしない物語』のウユララ。意味の川のせせらぎ。それは詩的なものである。
ケーキのなかにスルメが入っている。
p155 愛は戦い。ある意味(意味の川)で、マリー=クロードはいちばん愛をわかっている。
p130 本当は「笑うべきエピソード」ではなく、フランツにとって最も重要な問題。
p131 『特性のない男』の影響。アイロニー。
重い意味を持たない活字の海。
p79 膝にあざ。九人の男。母に跪く。
p7 牧歌的。第Ⅶ部の重要ワード。
サビナ、存在の耐えられない軽さ。人生のデラシネ。
第Ⅲ部断章6 サロン 戯画 プルーストなど
p350
p361 ルサンチマン。
p115 父とピカソ。裏切りのはじまり。
p138
p197 フランツ、教会
p100→p374 くりかえしへの憧れ
p47,p99,p118 雪の中にふたり
そういえば孤独って作中に言葉がすくないような気がする(無いわけではない)
カフカの小説に対する言及もないかな?
(余談:クンデラはエッセイでカフカの「作品」と「日記・手紙」を分けている)
p143 カフカ 日記だか手紙だか
p305 堕天使。「6」
p149 カルヴィーノ『空虚の騎士』、カフカ「インディアン」
p326 フランツがキッチュだと言うのではない。
p339 ヨーロッパとアジア、その他をわける境界、壁。
p206
軽くなく、かといって使命もない境地
p45←p375 繰り返しのユーモア
p245 モーツァルトとの比較
p20 繰り返しの幸福
p110 山高帽
セマンティックな川