『ファウストゥス博士』
架空の近代音楽作曲家アドリアン・レーヴァーキューン(Adrian Leverkühn)の運命をファウスト伝説を下敷きにして描いた長編で、マン晩年の作品。「一友人によって語られるドイツの作曲家アドリアン・レーヴァーキューンの生涯」の副題が示すとおり、古典語学者ゼレヌス・ツァイトブローム(Serenus Zeitblom)が年下の友人であるレーヴァーキューンの生涯を語り起すという設定で書かれている。もともとはマンが若い頃(1901年)に短編の素材として着想したもので、1943年になってふと思い出し長編に仕立てたものであった。 マンが本作執筆に着手した1943年5月23日は作中でツァイトブロームが物語を書き記し始めた日付と同じであり、ドイツが崩壊をたどる大戦末期の時間進行がツァイトブロームの語りに重ねあわされている。創作に必要な霊感を得るために意図的に梅毒にかかり(悪魔に魂を売り)破滅に向かうレーヴァーキューン(ニーチェとシェーンベルクをモデルにしたものと見られる)は滅びゆくドイツを象徴する人物であり、物語全体はドイツへの批判であるとともにマン自身の自己批判とも捉えられる。ただし、「『ファウストゥス博士』の成立」(第8章)には、レオンハルト・フランクからの問いかけに対し、主人公には特定のモデルはいないとマンが答え、更に、ハノー・ブッデンブロークを除いて、これほど愛したキャラクターは他にいないと述べたと記されている。 『ファウストゥス博士 友人によって語られたドイツの作曲家アドリアン・レーヴァーキューンの生涯』は、1947年に発表されたトーマス・マンの小説。古典文献学者であるツァイトブロームは、1943年から1945年にかけて、高い才能を持ちながら実存的な危機に瀕した友人レヴァーキューンの伝記を書いた。彼は世紀末の学生時代、神学から音楽への転向、梅毒感染によって創造性を高め、新しい時代の表現として不協和な作曲手順を発明し、人間の存在の核を掴み形造る試みを、病気によって1940年に死ぬまで行った。 このトーマス・マンの重層的な作品は、表向きはゲーテの模範的なファウスト神話に基づく芸術家小説であり、同時に音楽というメディアに関する小説であり、芸術理論に関するエッセイである。 何よりも、ある時代またはエポックの小説であり、ミュンヘン社会小説であり、人生の告白である。 これらの側面を組み合わせて、著者は主なテーマを形作った。それは、国家社会主義の時代にエスカレートした、個人的であると同時に超個人的な、歴史的・政治的プロセスとしての「高度で過度に発達した精神の古風な原始性への破局」である。