『オーストリア文学とハプスブルク神話』
1990年刊行
裏文
1918年、オーストリア・ハンガリー二重帝国は崩壊した。《オーストリア帝国、ハンガリー帝国、ボヘミア帝国等々、皇帝フランツ・ヨーゼフの全称号が表わすハプスブルク家世襲の諸領邦において教養を身につけた作家たちは、彼らの精神の形成期であった昨日の世界に目を向ける。過去となったあの世界こそ、人間としての、また芸術家としての個性を展開するうえで出発点であったと彼らは感じていた。(……)彼らの詩的体験は、過去との切り離せぬ結びつきから、そして彼らの記憶や夢に、言い換えれば文化に内在する神話から出発しているのである。》 本書は、オーストリア文学の展開を、中央世界を支配したハプスブルク帝国の歴史的伝統と重ね合わせることによって、その唯美的な文学の人工楽園のトポスに潜む、現実逃避的な傾向、あるいは「超民族主義」「官僚的」「不動主義」「快楽主義」といった精神性を剔出する。ビーダーマイヤーの時代の作家から、グリルパルツァーやシュティフターを経て、シュニッツラーやホーフマンスタール、そしてヴェルフェル、ロート、ムージルに至るまで、その文学の営みは一貫して《ハプスブルク神話》に呪縛されている。過去を追想し、現状維持を原則とするオーストリアの政治的社会的状況との対決が回避されるかぎり、作家たちの自己探求の旅はいつ終わるとも知れぬ心の不安に疼き、焦燥感は癒されることはない。だが、そうした現実疎外が美的に昇華されたところにこそ、オーストリア文学の汲み尽くせぬ魅力もまた存在するのである。