『まだら牛の祭り:完全な矛盾の追求』感想(く)
著者の杜若表六さんと少し縁があって、「読んで感想を書くよ」と約束したので全て読んだ。この小説は副題からもうかがえるように、「完全な矛盾」を創り上げることにある。 僕は途中から章ごとに簡単なメモ書きをしながら少しずつ読み進めた。だから終盤の第六部第七章以降(kindle97%以降)を除いて、大体のストーリーは頭に入っている。だけど結局、よく分からなかった。多分、著者の描きたかったことを僕は理解していない。小説の全体像が分からない。理解できなかった小説の感想を詳しく書けるわけがない。だからこそ書かなければならないのだ。なぜなら著者の敬意を示すためにも、自分があえて書くことのできない感想を書くという矛盾を実行すべきだからだ。そしてそのことによって完全な矛盾に到達できるかもしれないのである。
ところで最前、私は書くという行為を通じて矛盾を追い求めていると言った。それはすなわち、私が完全な矛盾を創り出すための手段を意味する。 そこで私はついに答えと見える場所に到達した――書き得るものを書かず、書き得ぬものを書くことによって、ついに完全な矛盾に到達できるということを。(kindle、349ページ)
だからこのまま書き得ぬ感想を綴っていきたいと思う。矛盾した感想になるかは分からないが……。
この小説は、メタフィクション、枠物語、群像劇的な描き方など様々な小説技法が登場する。メタフィクションについて言えば、小説の作者が登場して自身の生み出したキャラクターについて言及したり、対話をし始める。このような技巧的な一面はこの作品の魅力になっているに違いない。
この作品は第七部構成で、完全な矛盾を追求することにあるらしい。しかし、上述したように第六部の終わりまでのストーリーの骨組みは意外としっかりしているように思った。その肝心のストーリーも中々面白いと思う。
ストーリーのおおまかな流れは、『まだら牛の祭り』という作品を書いている小説家のAの前に、宮田と盥屋というAが書いた小説の登場人物が現れ、現実の世界(Aが小説を書いている世界)とAが創造したまだら牛の世界との境界が曖昧になり、次々と不可解なことが起きるというものだ。この小説は群像劇だから、様々な視点で描かれた出来事が一つに繋がり、収束していく過程も一読者として新鮮だった。 しかし第六部までで急に物語は終わり、続く第七部ではまた「序」同様に作者が出てきて矛盾の思想を語り始める。一見、ストーリーが放棄されてしまったように思えるのだ。作者は物語を放棄してしまったのだろうか。
おそらくそうではなく、第六章の終わり時点で完全な矛盾が完遂したからなのだろう。僕はこの小説を理解できていないが、下図のようになっているのだろうと考えた。
https://gyazo.com/1976d16446f6cf172d6864377de9d680
まずこの小説、『まだら牛の祭り』を書いているのはAだ。ということは、序や第七部を書いているのもAだし、メタフィクションの手法でAの前にAが創造したキャラクターが登場して〜ということを書いているのもAである。
また、よく小説の評論を読むと、「この登場人物は作者の反映だ」と言われることがある。この作品もその考え方が採用されているように思える。例えば、前章で横にいたのに突然いなくなったマネージャーと呼ばれる男について、七章で以下のように語られる。
「私にはマネージャーが必要だ」、「彼は私の記憶だ。私の失ったいちばん大切な記憶は、彼が私だということだ」 「どうしようもない」と編集長。「彼はもういない!」 「方法はある」、「私が彼をつくることだ」 (kindle、342ページ)
このAの語りの部分は、多分だがAはいつでも書くことによってマネージャーを作りさせるのであり、またマネージャーはAの反映なのである。いやAはマネージャーは私とまで言っている。これを拡大させると、宮田も盥屋も『まだら牛の祭り』の登場人物はみな、Aだったのではないか。
そして第六部七章で、Aの父──HFと呼ばれる──は無性生殖のように自らのコピーを生み出すことで存在を更新してきた存在であることが明らかになる。そうして自らのコピーであるAが生まれた。しかし、Aの父はAであることをやめ、非Aとなり、HFと名乗った。Aはまだら牛の世界を生み出した。だが、上述したようにこの小説を書いているのはAなのだ。そして『まだら牛の祭り』の登場人物はみなAなのだから、非AたるHFも結局、Aなのである。全部Aなのだ。
実際、第六部第七章の終盤で、Aたちは非AであるHFがAを生み出す「まだら牛の祭り」を阻止しようと結託する。その部分の会話が意味深なものとなっている。
「じゃあ、戦闘開始だな」、「しばし共闘だ」
「それは勘違いだ」、「戦闘は最初から始まっている。それに、最初から私たちは一心同体だ」
「ところで」、「いまこの小説を書いているのは誰なんだい?」
「Aだ」
「どのAだ」
「書いているAだ。さっき言っただろう。Aは無限に分割可能なAだ。何者でもありうる。矛盾した原理そのものが、エンジンとなってこの小説を書いているんだ。書いているのが誰だろうと関係ない」(kindle、344ページ)
つまり、非A=Aであるという矛盾、Aが非Aの試みを阻止するという矛盾、A=Aの登場人物という矛盾、非AがAなのにAを生み出すという矛盾、作者であるAがAの物語を書いているという矛盾……こうした様々な矛盾が明らかとなり、作者が身動きを取れなくなったから物語が終わったのではないだろうか。作者は完全な矛盾をこのようにして完遂したのだ……。