『まだら牛の祭り』のノート部分
これは、『まだら牛の祭り』の現状のヴァージョンでは削除された部分。ヒマでマニアックな人が読むべきだ。
神(A)の書いた手記、という体裁をとっている。
第八章 『番外編:ノートからの抜粋』
――人間の分際といふものの不承認。そこから來る無氣力。拗ねた理想の郷愁。氣を惡くした自尊心。無限を垣間見かいまみ、夢みて、それと比較するために、自分をも事物をも本氣にしない……。自己の無力の感じ。周圍の事情を打破る力も、強ひる力も、按排する力も無く、事情が自分の欲するやうになつてゐない時には、手を出すまいとする。自分で一つの目的を定め、希望をもち、鬪つて行くといふ事は、不可能な・途方もない事のやうに思はれる。――
――――中島敦『かめれおん日記』
次の文章はこの物語の中心たる作家・・・・・・神と便宜的に呼んでいるあの人物・・・・・・のノートから抜き出したものである。彼の創作方法や内面を知るにはあまりにも頼りない資料ではあるが、ひょっとしたらこの物語を理解するためのなにかの参考になるかもしれないと思い、ここに残しておく。
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生硬な論文。
真理とは、泥に手を深く差し入れるがごとく、難儀な手ごたえのするものだ。誰しもそれを忘れ、気安く真理に近づき、かえって混迷と苦悩の円環に入り込んでしまう。
知識を得たいがために闇雲に書をひらき、ただただ記されている文字をたどり、そのまま意味の迷宮に取り残されてしまう者も少なくない。あなたは知識を下僕にしようとしているのかもしれないが、知識もまた主人を選ぶのだ。
真理もまた同じである。それを得られるものは、必ずそれに値するものだ。同じ書物を読んでも、なにかを学ぶものとなにも学ばぬものがいるように、一つの物事を見ても、そこから永久不変の真理とやらを会得する者もいれば、まったく実りのない月並みな感想を得るだけの者もいる。 不公平だろうか、不平等だろうか? しかし、あらゆる事象とはそういうものではないか? 一瞬から永遠を学ぶことができる者は、そう多くないのではないか? いくら経験を積んでも上達しないことや、いくら言い聞かされても納得できないことの方が多いのではないか?
・・・・・・なぜ人間がかくも不器用にできているのか、これもまた不器用ゆえに容易には答えられぬだろう。我らに与えられた機能は貧弱である。しかしだからこそ必死になって答えを求めようとすることも事実である。我らは困難なことに対して一層の執念を燃やさざるを得ないようつくられているのである。
「誰も私には追いつけまい。私もまた誰かに追いつくことはできまい」
「背表紙ばかり見て満足していても仕方がない。と分かっているけど・・・・・・」
・物の名前を知らないというのは重しだ。
・一度、総まとめをしなければならない。検討する必要がある。全体的な完成の為には部分の関係性を重視せねば。日々新しくしていかねば、古いものも生きない。
・常にメモし続けることはできないから、せめて一部でも記録することが大切だろう。失われたものは大きい、という認識を持ち続ければ得るものを増やすのに役立つはずだ。
・すべてほとんど暗号のようだ。暗示しかしていない。
・ある頂点がある。そこに立つことのできるのは、その人自身だけである。内奥に咲く花。詩的な表現でしか暗示できないもの。孤独の中の光。
・本当に貴重なことを考えてみる。と自覚する。これが重要。世の中に自分しかできないことをしているという感覚を得ること。それが人としての第一日目の仕事。
・『天との垂直な感性』とは、必ず要るもの。誰しもそれを忘れて生きることはできない。――つまり生きながら死んでいるしかない人々も存在する。
最近思っていること。
・同じ興味を持つ人に会うのは難しい。自分の場合は、表現することで旗を掲げて人を呼ぶという方法を選んでいるが、そのことで実際に来た人はまだいない。何か・・・・・・何かが無い。何か重要な部分が抜けている。そんな気がする。
・人と人とのふれあい、交流には社交術が必須だが、芸術は必要ない。が、社交術すらいらない交流というものをしてみたいものだ。おそらく、面白いことになるだろう。人の反応というものは多様なのである。
・「ムーブメントに乗るよりもムーブメントをつくれ」という言葉は勇ましい。もっと勇ましいのは「ムーブメントを破壊しろ」という言葉だが、言うものは少ないだろう。誰しもが、恐れている。何を? つまり何も言葉が出てこないこと、あるいは過剰に言葉が出てきてしまうこと。言葉を使役しきれるものは誰一人としていない。
・小説について。自分の言葉で(たとえ一作、一行でも)書くことができたら、十分なことだ。「伝わらなさ」もまた大切なことである。この文章もそうだ。自分にすら伝わるかどうか、わかったものではない。
・オリジナルというものは存在しない。マネのマネのマネのマネの・・・・・・という連鎖があるだけである。それは当然のことで、だからこそ忘れがちなのだが、確かなことだ。
・小説は一気に書くスタイルである。これがどのように変わっていくかは知らない。自分の書いたものも読めないのに、他の人の書いた小説が読めるわけがない。(自分のばかり読むのも問題だろう)
・次から次へと読むべき本は増える。しかし人はせっかちな生き物だ。読み切るまで耐えることは大変だ。
・逆に、寝る間を惜しんで読みふける本はどうなのか。それが本当の読むべき本であるという考えもあろう。
・努力はするべきだ。だが結果は努力とは別のところにある。努力を恨んではいけない。
・カフカの小説が内部に閉じこもっているという見方は、間違っている。
・考えてみれば「思い出す」ことの方が「学ぶ」ことよりはるかに大切である。全て知っていたから。何もかも忘れてしまっているのが、我々中間存在(パスカルの言う中間存在)。
・酔っている人に、手を貸してあげようとして、その人は手をはねのけて、転び、頭を打つ。「お前が手を出したから!」と怒鳴られる。そんなものじゃないか? 
第十章 『番外編:ノートからの抜粋2』
今や最も時代の要求すべきものは、誇張である。脅迫である。熱情である。嘘である。何故なら、これらは分裂を統率する最も壮大な音律であるからだ。何物よりも真実を高く捧げてはならない。時代は最早やあまり真実に食傷した。かくして、自然主義は苦き真実の過食のために、其尨大な姿を地に倒した。嘘ほど美味なものはなくなった。嘘を蹴落す存在から、もし文学が嘘を加護する守神となって現れたとき、かの大いなる酒神は世紀の祭殿に輝き出すであろう。嘘とは恐喝の声である。貧、富、男、女、四騎手の雑兵となって渦巻く人類からその毒牙を奪う叱咤である。愛である。かかる愛の爆発力は同じき理想の旗のもとに、最早や現実の実相を突破し蹂躙するであろう。最早懐疑と凝視と涕涙と懐古とは赦されぬであろう。その各自の熱情に従って、その美しき叡智と純情とに従って、もしも其爆発力の表現手段が分裂したとしたならば、それは明日の文学の祝福すべき一大文運であらねばならぬ。そうして、明日の文学は分裂するであろう。大いなる酒神は、かの愚な時計の振り子の如く終始末期を連続しつつ反動する文化を、美しく平和の歴史の殿堂に奉納するであろう。
――――横光利一『黙示のページ』
・個々人が何らかの器官の役目を担っていることはありえる。ただしその目的が明らかにされることはないだろうが・・・・・・。
不完全な沈黙のあと、怒涛の勢いで喋りだす。ダムの決壊。また沈黙。また決壊・・・・・・。
このように我々は言葉を学ぶ。幾度も、幾度も・・・・・・。暗がりの中で真っ新なノートに文字を刻み付けていく。
そう、比較することなどできやしないのだ、自分と、他人と、第三者とは。隣り合わせで生まれたくせに、事実、わかり合うことはできないだろう。己の背中や己の死顔を見れないように。
詩、である。コミュニケ―ションの唯一の道は。詩によって交歓すること、互いに。それが救いとは必ずしも言えないし、誤解も多いのだが、事実、それしかないのである。
個々人は何らかの詩でありうる、ということは、この世界にまだコミュニケーションの方法が残されていることを示している。精神とは詩のインクである。
病とは、この「詩」が足りなくなった時のことを言うのである。そのとき現実は音もなく溶けてゆく。自ら気づかぬまま悟性は変容し、縮小あるいは拡大してゆく。否、世界はその個人において終わるのである。
人はそれを自由であるとうそぶく。しかし自由への閃きは詩の論理によって展開してゆく。
詩の欠如によって自由になれるはずがない。
ゆめゆめ注意すべし。
文学に限っていえば、こんなものは何の役にも立たない。
だから、とことん役に立たない文学こそ文学である、ともいえる。同じく役立たずなら徹底的に役立たずの方が役割として合っている。
天上への上昇が何んであろう? 地底への冒険が何んであろう?
・・・・・・我々は何らの期待も文学に対してする必要がない。絶対に。
世界もまた観念の一種類である。言うまでもなく。
本物の世界は常に隠されている。
完全に認知された世界は破滅する。
精神の軌跡を記す為に、人間はあらゆる手段を講じる。あらゆる点から言ってそれを完璧に成すことは不可能に近いが、それでも人々は模索を続ける。その不可能性自身が何か大きな魅力であるかのように。善人が悪人になるように、徐々にその記す行為は手段から目的に変わってゆく。目的となった手段は本来の役割を忘却し、一個の精神の廃墟となるのである。だが世の中には変わった趣味の人もいて、その廃墟を眺めて感興にふけることもある。
言葉とは世界を規定し、また構成するものであるが、この言葉が多すぎる者は世界(万民の共通認識)から逸脱し、孤立する。これこそ『天才』と俗に表現されるものの正体である。よって彼らに近づく為にわれわれ凡人は今よりずっと多くの言葉を獲得しなければならない。これは必ずしも辞書の上の『コトバ』を意味しない。日常言語、肉体言語、宇宙言語、etc・・・・・・様々な形態の言葉を得ぬ限り、飛翔する(あるいは潜っていく)ことはできない。
孤独という観念とも言い難い観念をどうすればよいのか?
放っておくのも無理があるし、近づきすぎるのも危険である。
孤独が感じられない人が増えているという。人といることに慣れすぎたか、一人でいることに慣れ過ぎたかしたのだ。
思うに、我々はこの孤独という観念と『中立』を保って生存していかねばならないのではないだろうか? 孤独でなければ発見はなく、孤独でい続ければ共有はないのだから。傾向は徐々に形式となり、ついには構成となる。それを決して忘れてはならない。
大人たちは、「あの楽しかった幼き日々にはもう戻れない!」などとため息ついて悔みがちだが、子供たちはというと、この暮らす毎日はあわれだ、うたかただ、やがて消え去るのだということを随分了解しているし、知っているものだ。第一、過ごす時間に対する認識もなしに生きることなど、どうしてできよう?
何人も重力から逃げることはできない。だが、人は自意識というものを持っている。それは常に上へ上へと昇ってゆこうとする向上心・野心の根源のようなものだ。それによって、正しくはそれによる努力によって、人はこぶし一個分だけ宙に浮かぶことを許されている。これが生きること、ひいてはロマンへの意志である。
ところで重力はどこから来るのか? そのもののもつ質量からくるのだという。これが『器』というもので、苦労する者は器も大きい、という説は見事に立証されるのである。・・・・・・ただし器の大きい者は他人にかける圧も大きいから、そこのところを重々承知の上。
経験によって純粋が破壊されるならば、純粋などくだらぬ観念に過ぎない。正しくは理想との差異によって。
いくら浅はかな理想であろうと、その構成はしっかりしている。もちろんその精神の内にある間の話だが。表現せんと欲する途端にまとまりに欠けた理念となる。
多くの人は自覚的にせよ無自覚的にせよ真・善・美の三つの最高イデアを求めずにはおれず、またそうすることによって生存の意義を見出している。人が偽・悪・醜の三つの最低イデアを憎み、疎外するのは、これもまた生きる為に必要なことの一つであって、これらのイデアによって生存しているという辛い『現実』から逃れようと、必死に真・善・美の三つのイデアを求むるのである。どちらにせよ、これら基礎的なイデアは生存に必要な観念である。
我々はかかる観念過多の時代に、いかに生存を練ってゆけば良いのであろうか?
それにはまず目標となる観念の城を自ら構築すればいい。これは尺度を自分なりの真・善・美とした個人的な夢想物であって、何者にも侵されることのない、強固な城である。全てはイメージすることから始まる。汝、想像を愛せよ。これが精神活動の第一歩である。我々は我々のために、建設せねばならない。納得のいくまで、深く巧妙に考えねばならぬ。自分にとっての偽・悪・醜のアンバランスに誑かされぬよう注意し続けなくてはならない。Memoryいっぱいに考えつくさなければならぬ。なぜなら、我々の人生で考えられる以上に問題は複雑で、かつ微妙であるから。最初は下らない落書きから始めてみるとよい。やがてそれでは満足しきれずに、次々とアイデアが頭の中を駆け巡るようになるだろう(『愛』こそが至上のイデアだという人もいるが、今やそうではない。新しく造らなければならぬ)。
自己の本質とは竟には自己が決定するものである。これは全体的な傾向である。
――性悪説・性善説について
「人間を手懐ける」とは、一聴して響きに難があろうが、一体どういうことをいうか。
その方法といっても、なにも一生その者を鎖に縛りつけておけばよいわけではない。確かに、人を平気のヘーサで殺してなおかつ土手に埋めてしまうようなことをする輩もいる。そういった連中は鎖で縛りつけてやるのが一番であろう。しかし総ての人間がそんな行いをするわけでない。
戦の時など合法的に目的に駆られてしかたなく人をまるで畜生のようにのようにあつかわねばならぬ状況に置かれることはあり得る。普段、健康な者ほどそういった場合に残虐になる。
なにもすべて民を苦しめる為の政策ではなく、むしろ為政者の邪な思惑を制限、より適切な(より極端にいってしまえば言いがかりを避ける意味での)判断・判別を下す為の性悪説であろう。これとは対照的に性善説においては、自然に訪れる感情によって時局を左右し、人々の平穏な文化生活を営ませんとするものだが、必然的に社会的圧迫感が生じ(ストレスやヒステリー的なもの)、小規模であるが混乱は免れぬ。
健全な精神を復古させるという意味では、二論ともに同じいものである。韓非子の云った性悪説にはいささか理想的かつ美的な要素がある。対して孟子の云った性善説は、案外に鋭い人生批判と観察があって、実践もまたこれ難しい。この辺りの研究はいよいよますますもって深めらるるべきものであろう。