「自分の定義」の正当性を疑う
そもそもなぜ「定義する」のを控えて「名指す」ようにすれば、議論がうまくゆくようになると思うにいたったのか?
と問いが立てられ、それに対して
「自分の定義では」とか「自分の語感では」に対する疑義がある
私もよく「自分のその言葉に対するイメージでは」という言い方はしてしまう
この、当たり前のように主張される、自分の語感・定義・語用の正当性を疑うというのが、このページの企画意図のひとつである
定義の語感を述べようとは思っておらず、定義という方法を改めるやり方の案を述べようとしている久住哲.icon
「定義の語感を述べる」という表現を、私は次のように解釈する:自分が「定義」という言葉をどう使っているかを述べる、ということ。ひいては、その自分なりの使い方でもって「定義」という言葉を議論においても使ってゆくこと。
私はこのようなことをしているつもりはない。ただし、そう見られる点があったとしたら、実は自分で気づいていないだけでそれをしているのかもしれない。
上の()の中の部分にも書きましたが、「筆者の「定義」の語感が述べられている」ということで指示したのは、(ページ全体ではなく)例えば「「定義」は調整されない」とかの部分です。というのも自分は「「定義」は調整されない」とは思いませんし、一般的にそうだとも思わないので、自分から見ればこの部分はページの筆者の「定義」の「語感」(「イメージ」?「解釈」?なんでもいいですが)が述べられている部分だと思われるのです。
ただし、おっしゃるとおり、定義にはたしかに議論を円滑にする効果があり、これを改めるということは不適切な道を歩むことになる、という可能性もある
議題や重要概念は言葉に閉じ込めるのではなく、
お互いに言葉によってその周辺をめぐりながら、最終的にお互いが共有しうるひとつの「命名」を持ち帰ることができれば、生産的であると考える