「自分で考えて動け」を分解する
「自分で考えて動け」という命令は、権限移譲の宣言として受け止めることができる。すなわち、それは発語内行為として命令ではなく宣言として受け止める余地があるのではないか、ということだ。 もしもそうであれば、「自分で考えて動け」の拙さは、要点が責任の所在であるにも関わらずそこに言及していないという、宣言における不手際に存する……ということになるだろう。
そして、なぜそこにそういった不手際があるかというと、それが発語媒介行為としては、責任放棄であるからだ。つまり、「自分で考えて動け」という「命令」は、命令形の形をとった権限移譲宣言であるのだが、その実態は権限移譲ではなく、自己の命令権のその場限りの放棄であり、職務怠慢であるということだ。
したがって、問題は、自己言及のパラドックスを述べてしまっているということに存するのではなくて、その命令を述べるものの無責任な態度、及びそこから派生する言語化の「戦略的」な不手際に存する。
であるから、「それに原理的に従うことができない」という指摘では不十分ではないか。
ただし、そういった断定にとどまることによって、説教臭さは脱臭される。「そういった命令は無責任だ〜」という言い方は、おしゃれではない。
「自分で考えて動け」という命令は、発語媒介行為として、〈指示待ち的な態度〉をやめさせようとする行為ではないか、ということ。 「おいおい〜、自分で考えて動いてくれよ〜」という侮蔑を含んだ言い方。これは、「自分で考えて動くといったことをしない」という態度への非難を含む。
この非難は、「考えない」ことへの非難であるというより、「動かない」ことへの非難である。端的に言うと、「動けよ」という非難的命令がそれである。「ぼーっとしてないで動け」と言い換えることもできるだろう。
もしそうであるとしたら、あの命令の問題点は、「自分で考えて」の中身のなさにある。
「私が指示してから動くんでは遅い場合もあるし、私だって気づかない場合がある。君も周囲に気を配り、私が指示できない場合に自ら適切な行動をとれるように用意をしておいてほしい。私が指示をするときにも、私はその場の状況を見て、そこから誰かがしなければならない行為を立てている。その誰であるかを私は指定する。それが自分自身であるときもあるし、君である場合もある。だが、状況を見てすべき行為をそこから引き出すことは君にもできる。そういった行為の引き出しを君が行ったとき、それをすべき〈誰か〉に君自身を指定してもいい。それ以前に、まず、状況を見てそこから誰かがしなければならない行為を引き出すといったことを行ってほしい。そのためには、状況を見ることと、そこから行為を引き出す規則性を学ぶ必要がある。その規則性については、私たちが君に教える。君にはそれを学んでほしいのと、それから、それ以前に、まず状況を見ること。その場で何が起こっているかを見ること。来客の兆しがあれば、来客が来るであろう方を一瞥すること。どのような来客であるかが確定するまでそちらに視線を保つこと。私たちは、どのような来客であればどう行為するべきかという規則を教えていく。君にはそれを学んでほしい。ただ、まず君にしてほしいのは、来客の姿を確認することだ。云々」
「自分で考えて」というのは、仕事の場合であれば、その場その場の状況に実践規則を適用することだと言える。だが、この実践規則というものは自分で考え出すものではない、必ずしも。
したがって、「自分で考える」の対象は実践規則ではない。
もちろん、その場で自分が何をするべきかを自ら判断しなければならない場面もある。だが、その場合でも、「何をするべきか」をゼロからあるいは一から創造しなければならない場面などない。もしもそんな場面があるとすれば、それは「べし」という当為の次元ではないだろう。だが、今問題なのは当為である。 「自分で考える」とは、ここでは、自ら判断するということであり、他人の判断を待たないということだ。「自ら判断する」とは、すでに与えられている実践規則を、その状況に適用することを意味する。すなわち、規則適用がそれである。すなわち、〈自分で状況を見て、それが何であるかを看取して、何であるかに応じた既存の実践規則を引き出せ〉というのがその指示である。そのうち、状況看取もまた規則適用であると言える。そして、規則適用は既存のものを利用するよりほかない。したがって、状況看取の中身も「自分で考える」の対象にはならない。ただし、「自ら状況看取を行え」という指示ではありえる。これは、他人が状況看取をするまで何もしないのではなく、率先して状況看取をしていけという指示である。だが、これは端的に言えば「見ろ」という命令である。もちろん、ぼーっと辺りを見回して、「みんな忙しそうだな〜」とでもいう風にニヤニヤしているだけでは意味がない。ここでの「見る」とは、何が起きているかを見るということであって、それは〈耳を澄ます〉といった形をとる場合もある。